悲しい誤解
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鏈《くさり》
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(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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陽が陰るように、胸に憂欝の気が立ち罩める時がある。はっきりした原因があるのではない。ごく些細なことが寄り集まって、雲のように、心の青空を蔽うのである。すると私は生気なく、しみじみと物思う気持ちになる。今朝ほどからそうだった。――昨夜、父の友人の相手をして、ウイスキーと焼酎をしたたか飲んだ。父はこの頃少し酒をひかえているし、友人はひどい飲み助なので、私が呼ばれて相手になったのである。それから、ぐっすり眠ったのだが、夜中に、ちょっと眼を覚した。二燭の小さな電燈の淡い光りで、室内は水の中の感じだ。その水中に、娘の小さな頭と妻のもじゃもじゃした毛髪とが並んでいる。なにかもの悲しい気がして、雨戸の方へ寝返りをすると、戸外はしんしんと、露のおりる気配で、こおろぎが一匹鳴いていた。ただの一匹だ。その鳴声に私は聞き入り、また眠った。
そのことが、朝になって思い出された。まだアルコール分が頭脳の中に残ってる心地がして、煙草もまずく、食事もまずく、ぼんやり新聞の活字を眼で追いながら、夜中のこおろぎの鳴声を心に聞いた。
食卓の上の幾つかの小皿のものを、妻は自分も食べ、娘にも食べさしていた。まだ三つの娘は箸がよく持てず、匙を使っている。馬鈴薯の煮たのを妻がつまんでやると、娘は頭を振った。
「じゃがいもよ。好きだったでしょう。もういやなの。」
「あっち、あっち。」
娘は他の皿の方へ手を差し出している。
「じき倦きるのね。こんどは、おいしいおいもが来ますよ。おさつ、さつまいも、知ってますね。あ、それから、やきいも、綾ちゃんはまだ食べたことがないでしょう。おいしいのよ。やきいも屋が出来るそうだから、そうしたら、たくさん買ってあげましょうね。」
ほかほかした焼芋のことを、妻は説明してやっていた。綾子に聞かせると共に、自分自身にも聞かせてるのである。今年は焼芋屋の商売が許可されると新聞で見たのだ。
ふっと、私は涙を誘われそうになった。単なる感傷ではない。やきいも、やきいも。そんなつまらぬ物に、何かの
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