のすべてだ。逞ましい速度で回転しながら、しかも音は立てず、ずずっと押し寄せてきては、跡形もなく消えてゆく……。眩暈に似ている。
「田代さん。」
たしかに声がして、振り向くと、さよ子が立っていた。幻影ではない。
「どうしたんだい。」
「あぶないから、ついて来たのよ。」
そんなはずはないのだが、然し、眼の前に立っているのだ。
何とも口が利けなかった。
彼女は私のそばに、寄り添って屈み、私の肩に身をもたせかけた。
「明日にでも、また来てね。今晩はだめだけれど……いつだっていいわ。ね、どこかに連れていって。旅行したいわ。」
いったい、何を言ってるのか。何を考えてるのか。私は薄暗い中に眼を見張って、彼女の方を顧みると、彼女はにこりともせず、真剣な面持ちだ。
「でも、悪いかしら。あなたには、奥さまもあるのでしょう。あたしはかまわないけれど……。いいわ、あなたを信じます。あたしも信じてね。」
何ということだろう。私は自分をも、彼女をも、殴りつけ踏みにじりたかった。
彼女の体温が心に蘇ってきた。然し、それは誰の体温でもよかったのだ。彼女の体温とは限らないのだった。ただ然し、孤愁の底に沈んでる心の思いを打ち明けるのには、彼女が最も恰好な相手だったろう。あのようなことを、誰に向ってよく言えたであろうか。妻にも、みさ子にも、姉にも、男性には勿論、会社のタイピストにも、そのへんのパンパンにも、言えるものではない。言えばばからしくなるばかりだ。それを、さよ子には泣きながら言えた。酔いつぶれていたから、なんかではない。やはり、彼女の体温が誰のものでもなかったと同じく、彼女は私にとって誰でもなかったのであろう。誰でもない、それはいったい何を意味するのか。私がキス一つ求めなかったのは、何を意味するのか。彼女は私にとって、ただ人間だったに過ぎない。
それだからと言って、彼女にとっては、私はただ人間だけではなかった。田代敏夫という一個の男だったのだ。
私は立ち上った。
「大丈夫だよ。心配しないでもいい。」
そして彼女の手を握って打ち振ってやったが、その手もすぐに離した。
ばかな、なにが大丈夫なのか。私の気持ち、彼女に話したって到底理解されまい。
わーっと叫びたいのを押えて、大きく息を吐いた。何度も息を吐いた。自分ながら酒くさい。鞄ごと両手を大きく打ち振り、大股に歩き廻った。
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