に、ほんとに涙が出て来た。
「君はだれだい。あ、さよちゃんか。」
 私はまた泣いた。
「ね、分ってくれるね。僕は淋しく悲しいんだ。人間てものが、悲しいんだ。胸に何か、愛情みたいなものが、いっぱいたまってきて、それを誰かに訴えたいんだ。」
「いや、大きな声をなすっちゃいやよ。」
「うん、分ってる、分ってる。」
 私は彼女になお縋りついてゆく。
「誰かに訴えたいんだ。この胸いっぱいの愛情を、誰かに訴えたいんだ。でも、誰も彼も、みんな遠くにいて、僕は一人ぽっちだ。君は……あ、さよちゃんか。分ってくれるね。この気持ち、分ってくれるね。」
「また、大きな声をなすっちゃいや。」
 私は声をひそめて言う。
「君は温かいね。ほんとに温かいよ。僕も君のように温かになりたい。僕を温めてくれ、もっと温めてくれよ。離しちゃいけないよ。僕はもう君を離さないよ。」
 私は彼女に縋りつき、その胴を、腰を、抱きしめ、その胸に顔を埋めて、涙を流した。彼女は私の上にかぶさるようにして、じっとしている。その胸の動悸が聞え、呼吸の熱さが感ぜられる。だが私自身は動悸も消えてゆき、呼吸も消えてゆくようで、ただ涙だけが熱いのだ。私は彼女の袖口から手を差し入れて、腕の肌をさぐった。
「冷たい手ね。」
「そうだ、手も冷たいし、体も冷たいんだ。君は温かいよ。僕を温めてくれ。」
 彼女に縋りついたまま、気が遠くなるようだった。
「さよちゃん。」
 みさ子の澄みきった声だ。私は我に返って、身を起した。さよ子は私の手をじっと握って、立って行った。なにか駭然とした思いで、私は酒を飲んだ。さよ子はすぐ戻ってきて、電車の時間のことを言う。そうだった、終電車に後れたら私は帰宅出来ないのだ。夢から覚めたように私は気がはっきりして、靴をはいた。
 駅のフォームに駆け上ると、急に酔いがぶり返して、ふらふらした。電車の時刻までにはまだだいぶ間があった。フォームの先端まで行き、屈みこんで息をついた。
 高架線になっていて、レールがそこの地面と共に宙に浮き上った感じである。赤や青の信号燈が点在して、大きな星が地上に降りてきたかのようである。それから先は空漠たる闇夜だ。見つめていると、巨大な物象が浮び上る。それが、近くまで迫ってきては、煙のように消える。偉大な車輪か、壮大な歯車か、広大なベルトか、強力なモーターか、飛行機のプロペラか、いやそれら
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