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十月八日――夜になって、頸筋に一種の硬直が感ぜられる。或は、昼間少し歩き廻ったせいで肩が凝ったのかも知れない。苦悶の感覚が少しもないのは、この推察を助ける。それでも、もしや……という気がする。
十月十一日――朝から視力がまた弱ってきたのを感ずる。薬液を取出してじっと眺めてみた。
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俺は今、二重に危険な途を歩いている。いつでも極量を越せること、いつ中毒するか分らないこと。一方は俺自身の意志に懸っており、他方は偶然の機会に懸っている。而もこの偶然の方も場合によっては偶然でなくなることを、俺は知っている。
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十月十六日――ストリキニーネはその排泄が徐々であって、ややもすれば蓄積作用を起して中毒症状を呈することは、医者に聞かなくても知っていたのだ。顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]部の皮下注射を断られるのは、固より覚悟の前だった。身体の栄養をよくすれば弱視はなおることがあるのも、俺は知っていた。凡ては、単に駄目を押しただけだ。駄目を押して、自分の前に右か左かの途しか残したくなかったのだ。そして希望通りにいったというものだ。
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今や俺の前には、服薬を続けるか弱視を我慢するか、何れかの途しか残ってはいない。
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十月十八日――Y子とE子との幻が一つになりそうな気がする。それは俺にとって堪らないことだ。
十月十九日――今日は非常に視力が鈍る。陰鬱な考えに終日耽っている。
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晩になって母と喧嘩をした。隆吉が余り泣くから疊の上に抛り出してやったのが、その原因だった。今後の生活が問題の中心だった。……俺には正当の理由があったのだ。E子を憎む時俺は隆吉をも憎んでやる。E子を許したい気持の時には、隆吉を可愛がってやる。俺はこの二人を気持の上で切り離すことが出来ないのだ。……今すぐ俺に働けといっても無理だ。時機が来れば大いに奮闘する覚悟は、俺にだってついてはいる。これ位のことに俺はまいってはしまわない。然し、人間の心には休息の時期が必要なのだ。中途半端な心の入れ方では、何をしても駄目にきまってるのだ。……そういうことが母には少しも分らない。分らないのを俺は責めたくはないが、分らなさを以てつっかかって来られると、つい苛立って来ざるを得ないのだ。
喧嘩の後で、母は一人で泣いていた。俺も涙が出てきた。然しその涙を、俺は卑怯な涙だと感じる。涙で妥協するのは卑怯なやり方だ。そう思うと、俺の眼からはまた涙が出てきた。どうにも仕様がなかった。
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十月二十日――朝と夕方と二回、〇・〇〇三に当る分量を服用する。夜、軽い頭痛を覚ゆる。
十月二十一日――朝起きると、軽い眩暈を感じる。それもすぐに止む。空が綺麗に晴れ渡っている。視力がはっきりしている。
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珍らしく郊外に出てみる。櫟林に寝転ぶ。涼しい風が何処ともなく流れてきて、枯葉がひらひらと舞い落ちる。淋しい梢の間から、白い浮雲が見える。その雲をじっと見ていると、櫟林や自分自身や大地がゆるやかに動き出す。大きな波に揺られ流されてるような心地。雲は何時までも空高く懸っている。大地が非常に頼りなく思われる。……ふと気づくと、雲が徐々に空を流れてるのであった。あたりを見廻せば、木の幹も草の葉も地面も、ひっそりと静まり返っている。かさかさと干乾びた音が何処かでする。黄色っぽい日脚が妙に弱々しい。……秋は寂しいものだと思う。一人で居るに堪えなくて、家に帰る。寂しさが心の底にこびりついて離れない。
家に帰っても、母とは口を利かない。そのおずおずした眼付がいやに圧迫してくる。隆吉がよちよち歩いてる。頭ばかりが大きくて、栄養不良らしい萎びた身体付をしている。自分の児だと思うと変な気がする。
これまで書いてくると、手先が震えて止まない。胸糞の悪い頭痛がする。※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の筋肉がぴくぴくする。
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十月二十四日――日の光りを見てると、頭がくらくらする。物の匂いがいやに鼻につく。平素は気がつかなかったが、電車の響きがうるさく聞えてくる。
十月二十五日――視力が少しも弱らない。日記をくると、二十日に服薬したきりである。いつもは大抵、二三日で薬の効果は消えるものだが、こう四五日も持続することは珍らしい。呼吸が非常に楽で、脈搏は弱いけれど強い。
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少し不安になる。或は中毒の前駆期ではないかと思う。暫く薬を止さなければいけない。
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十月二十七日――夜、書物を読んでみたが、どうもよく頭にはいらない。頭のしんに石でもつまったような心地。虫の声が耳について煩い。煩い余りに、ぼんやり聞くともなく聞いていると、階下《した》で低い話声がする。Y子の声のようだ。そんな筈はないと思っても、どうしてもY子らしい。余り不思議なので、遂に堪りかねて降りていった。母が一人でぽつねんと針仕事をしている。誰か来てはいなかったのですかと聞くと、母は妙な顔をして誰も来ないと答える。
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その後で、二階にじっとしてると、また低い話声がする。Y子のようであれば、E子のようでもある。余り変なので、再び降りて行ったが、やはり誰も来ていない。
そういうことがも一度あった。気の迷いにしては余り何度もだから、試みに母を二階に連れてきた。何にも聞えないと母は云う。なるほど話声は聞えない。此度は母を階下にやって、自分一人二階に居たが、もう何の話声もしない。その代り、俄に騒々しく虫の声がしだした。
そのことが変に心にかかる。一人で居るのが恐ろしい気がする。すぐに床を敷いて貰って寝る。眠れない。しまいに隆吉を自分の布団の中に抱き入れる。隆吉はすやすや眠っている。いつも隆吉を抱いて寝る母が、淋しそうに夜着の襟から顔を出して、こちらをじっと見ている。素知らぬ顔をして隆吉の方へ屈み込んだが、涙が出て来て仕方がなかった。
俺はもうY子のことを何とも思ってはいない。E子を愛している。憎いだけに猶更愛している。
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十一日八日――暫く日記を止すつもりだったが、また書き続けることにする。これは初め、自分の身体に対するストリキニーネの反応だけを、ごく簡単に誌し止めて、後の参考にするつもりだったが、余計なことばかり多くなってるのに気づいて、十日余り中止してみたのである。それを再びなぜ始めるかは、俺自身にも分らない。今俺の頭の中には、互に矛盾する無数のものが錯綜している。
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今月になって五回、〇・〇〇二に当る分量を服用した。反応微弱。
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十一月九日――皮下注射と内用との身体に及ぼす影響の差が、よく分らない。今日少し調べてみたけれど、やはり分らない。然し、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]部の皮下注射が弱視に効果あるとすれば、少し分量を増した内用も、やはり効果あるべき道理である。その上俺は元来胃腸が非常に悪い。薬の内用に依って、胃腸粘膜の鬱血を散じてその働きを佳良ならせるならば、一挙両得というべきである。その上俺は、可なりアルコールに害を受けている。もしこの薬によって呼吸中枢を興奮させ得るならば、同時に三得となるわけだ。
十一月十一日――視力の減退が著しい。試みに眼鏡屋へ行ってみたが、近眼の度が進んでるのではなかった。物の表面をしみじみと見ることが出来ない。輪郭も凡てぼやけている。
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薄暗い世界だ。何もかもぼんやりしている。気が苛立ってくる。一寸したことでも癪に障る。何かに脅迫せられてるような心地。
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十一月十二日――考えまいとしても、いつのまにか考えている。而も何等まとまった考えをしてるのではない。頭の働き方が全く機械的になつている。種々の射影がいつも同じような姿で浮んでくる。俺の頭はそれを機械的に取り入れて、また機械的に吐き出してしまう。永久につきない反応作用を営んでるのと同じだ。
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Y子もE子も俺にとっては過去の人物だ。母と隆吉とは二人だけで生きてゆける。それを俺はどうしようというのか?
敢然と歩いてゆくべき途が一筋ほしい。現在の停滞した状態をこね起すべき梃がほしい。何よりも先ず、頭の中だけに狭められたこの息苦しい世界を、豁然とうち拡げることだ。視力を恢復することだ。精神的窒息は最もたまらない。
夜、〇・〇〇四に当る分量を服用する。
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十一月十二日――朝、〇・〇〇四をまた服用する。
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異常な感覚を覚ゆる。天地が躍り立つようだ。空がこの上もなく澄みきっている。凡ての物が閃きながら揺いでいる。赤や青や緑の光線が縦横に入り乱れている。距離が妙に縮まって見える。気圧が極度に低くなったような心地。
歩いていると、膝関節に怪しい感じがする。足の運動が、非常に力強いわりに重々しい。変に自分の意志とそぐわない。いつ棒立ちになって動けなくなるか分らない気がする。
夕方、精神的な漠然とした苦悶を覚える。酒をやたらに飲む。酔ってるうちに意識を失ってしまった。
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十一月十三日――終日胸がむかむかする。
十一月十四日――甚だしく精神の疲衰を覚ゆる。しきりに眠い。そのくせ、横になっても眠れない。妄想が相次いで起ってきて、いつまでも止まない。はっきりした推理が出来ない。頭脳の一部が痲痺したのではないかと思う。
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心が暗澹たる影に包み込まれる。服薬を続ける。
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十月十八日――怪しい誘惑が働きかけてくる。高い絶壁の上に身を置く時には、絶壁の下に身を投じてみたらという誘惑――というより寧ろ感情が、しきりに動いてくるものだ。その感情を見つめていると、遂にはそれに引きずり込まれてしまう。これは実際に経験しなければ分らないことだ。俺は今死の絶壁の上に立っている。一歩の差で下に落ちる場所に居る。落ちたら……という感情がしきりに動く。それを見つめることは最も危険なのだ。日記をつけるのは間接にそれを見つめることであり、この白色の溶液を弄るのは直接にそれを見つめることなのだ。日記をも薬液をも投擲しようかと思う。
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死に、もし努力がいるならば、その生は無意味だ。生に、もし努力がいるならば、その生は無意味だ。死せんがための若しくは生きんが為めの努力ならば、まだしもよい。然しながら、死そのもの若しくは生そのものが一の努力となるならば、その死や生はつまらないものである。
俺は努力の生を続けたくはない。また努力の死をしたくはない。生きるのが自然であるならば生き、死ぬのが自然であるならば死ぬばかりだ。俺は今、死にたくも生きたくもない。自然のままに任せたい。
こういう状態は最もいけないものであることを、俺は知っている。然し何かに興味を繋
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