ぐことの愚かさを、つくづく感じる。俺は誰をも愛しない、誰をも憎まない。
それにしても、自分自身に対する呪わしい気分が時々湧き上って来るのは、何としたことであろう?
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十一月十九日――〇・〇〇三を二回服用する。
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何のためであるかを自ら知らない。
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十一月二十日――今日は変な日である。空が晴渡ってそよとの風もない。凡てのものがひっそりと静まり返っている。水底にもぐったようである。それなのに、光りと音響とだけが浮き出して見える。宛も自分だけが光りと音との波間に浮んでるがよう。軽い眩暈と恍惚の情とが相次いで起ってくる。時々嘔気を催す。然し精神は清朗明晰を極めてるがように感ぜらるる。
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母がしきりにこちらを窺ってるのが分る。俺は真正面から母の顔を見返してやる。その白い額から小皺を刻んだ頬へかけて、石のような感じがする。不思議だ。隆吉を抱いてる彼女の姿は、丁度子供を抱いてる石地蔵のように見える。隆吉の頭がまたいやに固そうに見える。お母ちゃんという言葉を知らないで彼は幼時を過してしまうのかと、ふと考えてみたが、それも何処かへ飛び去ってしまう。後はしいんとしている。眩しいほどの光りと音響との世界だ。光りと音との波に溺れて、凡ての事象がひっそりと凝り固まっている。
殆んど終日黙って暮す。酒も飲みたくない。
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十一月二十四日――発熱。脈搏不整。四肢の筋肉に軽い痙攣。
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急性薄脳膜炎の症状を少し調べてみる。中途で気づいて止す。何の気兼ねぞ!
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十一月二十五日――俺は凡てを知っている。俺は死ぬのではない。
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怪しい幻想になやまされる。
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十六
以上が、洋罫紙に細字で認められてる全部だった。それは吉川の手で書かれたものに違いなかった。中に出てくる人物で、Y子というのは保子のことらしく、E子というのは、吉川の許を逃出した英子とかいう女のことらしかった。
周平は一気に読み終って、初めてほっと息をついた。妙に胸騒ぎがした。手の紙片をじっと眺めた。或る部分はごく念を入れて書き誌してあり、或る部分は一気に書きなぐってあった。ただ、何処にも殆んど添削がなかった。頭からじかに紙上へ落ちたままのものだった。冷静らしい文句の下に、強いて抑えつけられた感情の渦巻きが見えていた。それが周平の胸に直接に響いてきた。彼は悪夢に似た迷濛の中に引入れられるのを感じた。
その上、不思議な偶然が彼の気にかかった。保子の日記を探すつもりだったのが、脱却したと思ってる吉川のことの中へ、突然投げ込まれてしまったのである。一種の奇縁というより外はなかった。彼は怪しい運命の糸を自分の身に感じた。それがなお彼の心を脅かした。
それにしても、吉川の日記――恐らく最後の日記――が、どうして横田の手許にあるかも不思議だった。何か人知れぬ事実があるらしく想像せられた。
周平はその日記を、何度も繰返し読んだ。然し、圧搾せられた感情の波がひしひしと感ぜられるだけで、村田から聞いた以上の具体的な事実は、何一つ見て取れなかった。ただ、吉川の死は英子と別れてから一ヶ月よりずっと後であるということと、その死は自殺とも病死とも云えないものであるということだけが、ほぼ明かになった。
周平は吉川の日記を幾度もくり返し読んだ後、更にそれを手早く写し取った。それから用心のために、写したものは自分の下宿へ行ってしまって来た。ひどい精神の疲労を覚えた。そして、何だかこのままでは治りがつきそうもない気がした。それでも構うものかと思った。ぶつかるものにぶつかっていけと心を定めた。
彼は二階の室に寝転んでばかり日を過した。朝といわず夕方といわずすぐにうとうととした。かと思うとはっと眼を覚した。頭がぼんやりしていた。それが夜になると、いやに頭のしんが冴え返った。吉川のことが自分の心の中のことであるような気がしてきた。その半ば自棄的な気持の底から、彼はいつのまにか保子のことを考えていた。眼の前に彼女の姿を浮べていた。遠い過去の恋人ででもあるかのように、その姿を彼はじっと眺めた。しみじみとした哀愁の念に囚えられた。そしては、またはっと我に返った。
この哀愁の心と、何物にもぶつかっていけという心と、そのどちらが本当の自分であるかを彼は迷った。どちらも本当の自分であるとすれば、も一つその上に立つべき何かがある筈だった。それを彼は見出し得なかった。しまいには絶望的な気持になった。
そこへ不意に、全く不意に、保子が隆吉を連れて帰って来た。
十七
それは綺麗にうち晴れた日の午後だった。周平は二階の室で、午睡とも云えないほどのうとうととした気持で、聞くともなく蝉の声に耳をかしていた。すると俄に、玄関に俥夫の威勢のいい声や女中の頓狂な声がして、次に保子の落着いた張りのある声がした。周平はそれと気づかないうちに立ち上っていた。階下《した》にかけ降りてみると、僅かばかりの手廻りの荷物の中に、保子が隆吉の手を引いて立っていた。周平は一寸挨拶の言葉も出なかった。
「只今」と保子は云った。それから周平の顔を見つめた。「何を変な顔をしてるの? ……でも喫驚したでしょう。急に帰ることになったものですから、知らせる隙がなかったのよ。」
「先生は?」と周平は漸く尋ねた。
「お後《あと》。隆吉が病気なものですから、私だけ先に慌てて帰って来たのよ。」
然し見た所、隆吉は大した病気でもなさそうだった。ただ、動く度にひどく咳込んだ。保子はその上に屈み込んで、苦しかないかと聞いたりした。
座敷に床を敷いて隆吉は寝かされた。熱を測ると八度七分あった。かかりつけの医者へ女中が電話をかけに行った。帰りに氷を買ってきた。氷枕をさしてやった。――隆吉は初め軽い風邪にかかったのだそうである。それが変にこじれて、気管支加答児となり、高い熱が出た。或る日などは唾液に血が少し交っていた。肺炎にでもなりはすまいかという恐れがあった。然し非常に辺鄙な土地なので、いい医者が近くになかった。病気に神経質な保子は、兎に角東京へ帰ったがいいと云い出した。それで、横田だけ後に残って、保子と隆吉とが至急に帰ってきたのだそうである。
医者は都合して早く来てくれた。丁寧に診察した。病気は気管支加答児だけで、それも大したことはないそうだった。吸入に湿布に、熱があれば氷枕、過激な運動を避けること、それだけが手当の全部だった。
周平は医者の家へ薬を取りに行った。途中で郵便局に寄って、病軽し安心せよと横田へ電報をうった。医院へ行って処方箋を出すと、顔の大きな頭の禿げた薬局生が小窓から覗いて、御病人は如何ですかなどと云った。周平は厭な気がした。
可なり長く待たされた後、薬を貰って外に出ると、もう薄暗くなりかけていた。彼は知らず識らずに足をゆるめた。慌しいようでしめやかな夕暮のなかを、何処までもゆっくり歩いて行きたい気がした。保子の前へも出たくなかった。頭の中に描いていた幻が、現在の保子の姿に蔽われつくして、ただやるせない憧憬の気持のみが、彼のうちに残されていた。その気持がどういう方向を取るか分らないのを考えると、彼は云い知れぬ胸の戦《おのの》きを感じた。と共に、保子に対して無力である自分自身が、不安になり恐ろしくなった。
それでも、彼はいつのまにか家へ帰ってきた。保子は隆吉の枕頭にぽつねんと坐っていた。彼がはいっていくと顔を挙げた。
「早かったわね。……私慌ててたものだから、あなたまで騒がしてお気の毒ね。御免なさい……何だかがっかりしてしまったわ。」
そう云って彼女は、静かな無心の眼付で周平を見た。
隆吉はすやすやと眠っていた。
「お食事の支度が出来ました。」
そう女中が云って来た時、保子は床柱に軽く上半身をもたせかけて、膝をくずしながら大儀そうに坐っていた。その膝を重たそうに引きずって、隆吉の枕頭に匐い寄っていき、一寸その額に掌をあててみ、その顔をじっと眺め、それから立ち上った。
食事の間、女中が隆吉の側についてることになった。食卓の上には麦酒が一本のっていた。
「私も一杯飲んでみよう。」と保子は云って、ぽつりと小さな皺を眉根に寄せながら、なみなみと注いだコップに唇をあてた。
「あちらでは、どんなに動き廻っても平気だったけれど、東京に帰ってくると、身体がだるくて仕様がないわ。やはり海岸はいいのね。……あなたも少し行ってきちゃどう?」
そして彼女はまじまじと周平の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。
そういう彼女には、身体の線がなよなよとくずれて、持て余したような柔かな肉体があった。それを彼女は横坐りにした腰の上にくねらして、片腕をまくってみせたりした。
「こんなに真黒になってよ。海にはいった初め二三日のうちは、ひりひりして仕方なかったけれど、それからむやみと痒くなって、掻く度に薄い皮がむけるのよ」
肩の上で一線を劃して、それから奥は真白に海水着の跡がついていた。
「奥さんは泳げるんですか。」と周平は尋ねてみた。
「ほんの少しばかり。でも泳ぐのは第二で、波にもまれてるのがいい気持よ。それから砂浜の上に寝転んだり、細帯一つで室の中にごろごろしたりして、それは呑気よ。帰って来ると、帯をちゃんとしめたりしていなけりゃならないので、何だか窮屈で仕様がないわ。身体がだらしなくなってしまうのね。……こんな坐り方なんかして、御免なさい。」
そして彼女は白い歯を見せて微笑んだ。
実際彼女のうちには、妙に締りのない明けっ放しの所があった。以前は、如何に距てない温情を示す時でも、其処に一種の清らかなつつましさがあったけれど、今では、その清らかさが変に濁りを帯び、つつましさがしどけないものに被われていた。
周平はその変化に眼を見張り、次には眼を伏せてしまった。頭の中に描いていた彼女は、いつしか夢のように消え失せて、凡てをさらけ出したような露《あらわ》な彼女が、余りにまざまざと眼の前に在ったのである。一寸手を伸したらすぐに触れそうな彼女だった。彼は不安な誘惑を感じた。恐ろしくなった。明日あたり下宿に帰ろうかと云い出してみた。
「あら、どうして?」と保子は云った。「横田が帰るまでいてもいいんでしょう。ね、そうなさいよ。私が帰って来たからすぐに出て行くなんて、変じゃないの。」
その何気ない最後の言葉が、彼の自由を奪ってしまった。自分の心の中にある疚しいものを、一挙にほじり出されたような気がした。そしてその晩床の中で、彼は長く眠れなかった。いろいろ考えあぐんだ末、最後に辿りついたものは、保子に恋したのだ! という一事だった。今迄自ら押隠していたが、もはやどうにも出来なくなった、その一事だった。
彼はしみじみとした涙と苛立った憤りとを、同時に感じた。今後のことを考えると、暗い穴にでも陥るような気がした。
十八
翌朝、周平は遅く迄寝ていた。眼が覚めた時は、障子にぱっと日の光りがさしていた。眠ってるうちに女中が雨戸を開いてくれたものらしい。彼は室の中のだだ白い明るみを暫く眺めていたが、眼の底が熱くなるのを感ずると、頭から布団を被ってしまった。自分は保子を恋したのだ! 昨晩ふと考え及んだその一事が、しつこく頭に絡みついてきた。凡てがその一事に圧倒され終るような気がした。
迷霧の中を辿ってるような心地で、いつしかうとうととしてると、階段を上ってくる足音が遠くに聞えた。それがはたと止んで、あたりがひっそりとなった。長い間のようだった。と俄
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