恐れられた。また一方から云えば、彼女の旅行は、彼女から全然離れた所に自分の心を置いてみるのに、またとない機会であった。改めて何等かの口実で断ろうかとも、彼は考えた。然し決断をしかねてるうちに、その日となってしまった。
 おかしな日だった。周平は朝早く起きて窓を開いてみた。空も地上も薄暗かった。今にも雨が落ちて来そうだった。今日は雨だから出発は延びるのだろう、と彼は思った。そして愚図々々していた。六時半頃雨傘を手にして出かけた。途中で、ふいに朝日の光りがさしてきた。空はいつしか綺麗に晴れ渡って、木立の陰に霧がすっと靉いていた。曇りだと見えたのは霧のせいだった。彼は足を早めた。
 横田の家へいくと、もう出発の用意が出来ていた。
「なんだ、傘を持ってきたのか。」と横田は云った。
「ええ、雨かと思ったものですから。」
 保子が笑みを含んだ眼で睥むようにして彼を見た。然し彼女は黙っていた。忙しそうだった。
 彼は食事前だったから、大急ぎで朝食をした。それから、皆より一足先に出て、電事で上野駅へ見送りにいった。
 朝も早いし、一ノ関までの列車でもあったせいか、乗客はわりに込んでいなかった。見送り人の少い妙に寂しい歩廊を、周平は腕を組んで歩き廻った。汽車の出るのが非常に待ち遠いような気がした。
「食べ物でも何でも、好きなように女中へ仰しゃいよ、あなたが家の中の主人だから。」と保子は云った。「でも、勝手に夜遅くまで飛び歩いたりなんかしちゃ駄目よ。……面白いことがあったら手紙をあげるわ。」
 周平は黙ってその顔を見返した。
 汽車が出てから、隆吉がいつまでも車窓へ首を出してこちらをじっと見ていたのが、変に周平の頭に残った。
 彼はぼんやり佇んで、列車の姿が消えるまで見送っていた。淋しい気もした。ほっと安心の気もした。

     十四

 周平は斯くして、横田の家で暑中を過すことになった。眼の小さな足の短い肥った女中が、万事を世話してくれた。
 平素来馴れた家ではあるけれども、居るべき人々が居なくてひっそりしてるので、初め彼は旅にでも出たような気がした。室の隅に寝転んだり、庭を歩いてみたりした。凡てが珍らしかった。
 然し、一週間もたつうちには、その珍らしさがなくなって、室の中の様子から庭の隅々まで知りつくすと、とりとめもない漠然とした空虚を覚えだした。
 友人等は大抵東京を離れていたし、東京に残ってる者等には、横田の家で暑中を過すことを知らしていなかった。横田一家の不在中に、友人等を集めて勝手なことをするのは、何となく憚られたのである。それで、村田と野村とが各一度訪ねてきたきりだった。其後村田は旅に出ていた。
 周平は為すこともなくぼんやり日を過した。自由にしていいと云われていた書棚から、書物を取って読んでみたが、少しも気乗りがしなかった。退屈だった。退屈を通り越して妙に頼りなかった。この心の不満は何処から来るのか、と彼は自ら尋ねてみた。然し実はその原因を知っていた。知っていながらそうだと認めたくなかったのである。
 昼間はそうでもなかったが、夜になってあたりが静まると、彼はいつのまにか保子のことを考えていた。それが、今は亡い遠い昔の人を偲ぶような心地だった。彼は記憶の中を探って、彼女の姿をはっきり其処に現わそうとしていた。宛も石塊に彼女の像を刻むがようなものだった。初めはただ漠然とした立像だった。それに、清い純な光りを放つ鋭い眼が出来てきた。眼から少し間を置いて、すっと刷いた美しい眉が見えてきた。理智的な淋しい影を浮べて引緊ってる頬の曲線の中に、上下が少し歪み加減にきっと結ばれてる薄い唇と、口角の深い凹みとが、現われてきた。それから、やや四角張った男性的な額を巧に隠してる房々とした髪、よく傾《かし》げがちになる細い首、力無さそうな痺せ形の上膊と胸部、全身の重心となる腰部、すらりとした股から足、長い手指の先の艶のいい小さな爪、……それらが順次に形を取っていった。それだけの像を頭の中で刻むのに、彼は可なりの時間を費した。気長にゆっくりやるのが楽しみだった。腑に落ちない点を見出せば、すぐに其処を壊してまた作り直した。像が出来上ってしまうと、夢みるようにしてぼんやりそれを眺めていた。然し気の持ちようによっては、像はすぐにぼやけて消え失せてしまった。殊に昼間は、どうしてもうまくまとまりがつかなかった。
 それが彼には淋しかった。そして、その淋しさの原因を知っていながら、他に何等かの口実を探そうとしただけに、益々変に気を惹かれていった。彼は自分の脳裡に在る保子を、現存の人物でないような風に眺めた。其処に淡い感傷があった。彼は拵え上げた保子の像を眺めるだけでは満足しないで、しまいにはそれを歩かせたり坐らせたりした。室の隅や庭の中や自分の周囲に、その時々の気分の赴くままに動き廻らせた。
 そのうちに保子の像は、或る一つの姿を取って、其処で動かなくなってしまった。
 それは、彼女が日記を読んできかしてくれた姿だった。桔梗の模様を浮出さした凉しげなメリンスの着物に包まれて、彼女の姿はいつもよりなお清らかだった。それが机に半身をもたせかけ、庇うように両袖で日記帳を押隠しながら、腰と筋頸とに軽いねじれを見せて振り向き、底の知れない輝きを含んだ眼付で、こちらをじっと眺めていた。彼は怪しい魅惑をそれから受けた。
 夕食後庭を歩いていると、ふと、彼女のそういう姿が奥の室にあるような気がした。二階に寝転んでいたり、散歩から帰ってきたりしても、やはりそうだった。然し、女中に気兼ねしながら何気ない風で、そっと奥の室を覗いてみると、こちらから射す電燈の光りが、蔦の葉模様の襖に芒と映ってるきりで、室の中は薄暗くがらんとしていた。
 或る日、昼間、女中が用達しに出かけた後で、彼は奥の室にはいってみた。それは殆んど保子が独占してる室だったので、彼はまだ一人で足を踏み入れたことがなかった。何かが期待せられるような心地でそっとはいってみると、中の有様は以前と少しも違わなかった。左奥の窓際に寄せて机が一脚置いてあり、上には硯やインキ壺がのっていた。壁に沿って箪笥が二つ並んでいた。床の間には、袋にはいった琴が片隅に立てかけてあり、他の隅に大きな鏡台があって、鏡の面には友禅縮緬の鏡掛が垂れていた。彼はそれらを一通り見渡したが、何だか非常に淋しかった。彼女の居ないのが物足りなかった。鏡の前に行って鏡掛をはね上げながら、自分の顔を映してみた。生気《せいき》のない衰えた顔付だった。鏡台の抽斗を開けてみた。櫛や簪や毛ピンが沢山はいっていた。次の抽斗には化粧壜が一杯はいっていた。どれもこれも使い古しばかりらしかった。その一つを取って嗅いでみた。褪せたほのかな匂いきりしなかった。
 その時、玄関の方に人の足音がした。彼ははっとして、急いで室から出て、縁側に佇んだ。女中が帰って来たのだった。女中はすぐに台所の方へ行った。彼は漸く安心した。と共に、胸の高い動悸を覚えた。
 その偶然のことが、後でひどく気にかかった。気にかかりながらも、心が惹かされていった。やがて彼は、保子の日記帳を探し出してやろうと計画してる自分自身に、我ながら喫驚した。それは、横田夫婦の信頼を裏切る行為であり、また、最も卑劣な賤しい行為であった。然し、一度滑りかけた心はどうしても止まらなかった。その上、口実は如何様にもついた。日記によって保子の本当の心を知ることは、変な所へ陥りかけた自分自身を正当な位置へ引戻すべき、唯一の方法らしく考えられた。それによって未来が安泰となれば、一時の罪は十分に償われる筈だった。あの時、内密で読んできかせようと云った保子の態度を考えると、全部を見せたい気持が、自分を啓発したい意志が、或は彼女にあるのかも知れないのだった。……兎に角、行く所までいったら後は自然に途が開けてくるだろう、そう彼は結論した。
 斯くて彼は、彼女の日記を探すべき機会を窺った。
 女中は洗濯物をしたり居眠りをしたりして、なかなか家を空《あ》けなかった。それでも時々買物に出かけた。周平はその僅かな機会をも遁さなかった。後には可なり大胆になって、用を拵え出してはその使に行って貰った。不用心だからという口実で、裏口はすっかり閉めさせ、玄関の硝子戸には釘をさした。そして彼は保子の日記を探した。
 けれども、箪笥などにはさすがに手をつけ得なかったし、机の抽斗や袋戸棚や手文庫などを検べている最中にも、ふと恐ろしい気がして、其処を逃げ出すことがあった。その恐ろしさが静まると、自分が自分でないような妙にぼんやりした心地になった。そして彼は空虚な心で、縋るように保子の幻を描きだした。
 保子からは、向うに到着の葉書が一本来たきり、何の便りもなかった。彼は益々胸苦しい気分になっていった。
「井上さん、」と女中は云った、「何を毎日ぼんやり考え込んでいらっしゃるの。少し散歩にでもお出かけなさいな。身体に毒ですよ。」
「家にじっとしてる方が涼しくていい。」と周平は答えた。
「あなたは実際変っていますよ。一日誰とも口を利《き》かないでよく淋しくありませんね。……奥様もそう云っていらっしゃいましたわ。井上さんは気が向くとよく饒舌るけれど、気が向かないと黙り込んでばかりいるって。そりゃ誰だって、口を利きたくない時もありますけれど、あなたみたいに、幾日も黙っていられる方は珍らしいですよ。」
「横田さんだって随分無口の方じゃないか。」
「でもあなたほどじゃありませんよ。……奥様と喧嘩なすった時は別だけれど。」
「え、横田さんが奥さんと喧嘩なさることがあるのかい。」
「あるってほどじゃありませんわ。私が来てからただ一度きりですから。」
「何で喧嘩なすったんだい。」
「何でだか私は知りませんけれど、お二階で夜遅く迄云い合っていらしたのよ。そのうち私共は寝てしまったから、何のことだったか分りません。けれど、それから二三日の間は、先生も奥様も黙りっきりで、一言《ひとこと》も口をお利きなさらないものだから、私共までほんとにびくびくしていましたわ。」
「それから?」
「それからって、それだけのことですよ。」
 周平はぷいと立っていった。そんな話に好奇心を動かした自分自身が、変に不愉快になった。と共に、その不愉快さに対する反撥心が起ってきた。毒を以て毒を制したいような自棄気味になった。
 彼は二階の書斎に上って、机や卓子や本箱の抽斗をかき廻した。もし横田の日記でもあったら、それを読むことによって、保子の日記を見出せない腹癒せをし、また、こんな所まで陥ってきた自分自身に返報をするつもりだった。
 本箱の抽斗を探していると、丁寧に紙に包んだものが出て来た。中には、小形の洋罫紙が十枚ばかり、二つ折りにしてはいっていた。その一行を何気なく読んで、彼は危く声を立てようとした。それから、辛うじて驚きを押し鎮め、室の中を見廻し、抽斗を元のように閉め、洋罫紙を室の真中に持ち出して、その両面に細字で書いてあることを、彼は一心に読み始めた。

     十五

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十月六日――俺は死を厭うものではない。然し好奇心によって死にたくはない。
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 夜、〇・〇〇三に当る分量を服用している時、ふと〇・〇〇五の極量を越してみたらという気がした。次の瞬間には危いと思った。手先が怪しく震えた。そして厳密に分量を検査した。勿論千倍の溶液だから、少しの差は構わないようなものの、誤ってつまらない結果に陥りたくはない。
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十月七日――何という爽快な気持だろう! 陰鬱にぼやけていた世界が、俄に明るくなったのだ。凡てのものが輝いて見える。軒先に流れる日の光りが、それとはっきり見て取られるようだ。
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 あの重苦しい幻影が消え失せたことは、俺にとって最も喜ばしいことなのだ。
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