なら、包まず仰しゃいな。」
次の月曜日に隆吉を教えに訪れた時、そういう風に保子は尋ねかけてきた。
「何にも心配事なんかありません。」と周平は平気を装って答えた。
「そう、それならいいけれど。……でも、いやに考え込んでるようじゃないの。こないだ……この前だわね、あの時だって、来るが早いかすぐに帰っていったりして、その上、妙にそわそわした落着きのない様子だったと、横田もそう云ってましたよ。あなたは一体、自分一人でくよくよ考え込む癖があっていけないわよ。」
「そうですか、それも私の僻みですかね。」と周平は冗談の調子で軽く受け流そうとした。
然し保子は、それを頭から押被《おっかぶ》せてきた。
「そうかも知れないわ。僻みなんか早くうっちゃっておしまいなさい。もっと快活にならなくちゃ駄目よ。」
「然し幸福な人でなければ快活にはなれません。」
「そんなことがあるものですか。心さえ真直だったら、どんなに不幸でも快活になれるものよ。」
彼女の所謂《いわゆる》心が真直だということは、純な素直《すなお》さの謂だった。たとえ考えは間違うことがあっても、その考え通りに一徹な素直な途を進む時には、人は自ら安んずることが出来るものだ。人は自分の心だけを見つめて居ればいいのだ。
「あなたみたいに、」と保子は云った、「始終|他人《ひと》の思惑に気兼ねばかりしてると、いつまでたっても心が落着くということはないものよ。」
そういう風に云われてくると、周平は妙に気持が真剣になってきた。そして云った。
「私は純粋ということは好きですけれど、然し単純ということには余り賛成しません。単純は愚昧の一種ですから。」
「けれども、複雑で浅いよりは、単純で深い方がよかなくって?」
「すると、一人よがりの独断なんかも尊いということになりますね。」
保子は眼を見張った。
「ああ、あなたは理屈で考えてるから駄目よ。私の云うことがちっとも分っていないのね。例えて云うと……あなたは恋をしたことがあって? あれば分る筈だわ。」
周平は黙って保子の眼を見入った。保子は眼を外らさなかった。周平は急に不安になった。咄嗟に云ってのけた。
「それじゃ、奥さんは今でも恋をなすってるんですか。」
云ってしまってから、彼は顔が赤くなるのを覚えた。自分の言葉の馬鹿げた頓馬さよりも、それを妙に笑えない気持が、ぴたりと胸にきた。
「まあ何を云うのよ!」と保子は云った。「もうあなたとは話をしない。」
周平は顔を挙げた。保子は口を尖らしてつんと横を向いていた。その怒った様子を見て、彼はほっと助かった気がした。この場合、冗談や皮肉を浴せられるよりも、腹を立てられるのが一番心安かった。然し次の瞬間に、彼女の眼付が笑ってるのを認めた時、彼はどうしていいか分らなくなった。自分自身が醜く惨めに感じられた。
そして、保子の側を離れて一人になると、その気持からしきりに脅かされた。はては苛立たせられた。その余憤を彼は、知らず識らず隆吉の方へ持っていった。
周平がやって来る前に、隆吉はいつも自分の四疊半にはいって、小学校一年級の教科書を机の上に並べていた。そして周平の姿を、じろりと上目がちに迎えた。
「何か分らない所はありませんか。」と周平は云った。
「ありません。」と大抵隆吉は答えた。
それでも隆吉は時々、二三の問いをかけることがあった。周平はそれを丁寧に説明してやった。然し隆吉は上の空で聞いていた。説明が済むと、片頬に少し笑靨をつくって、周平の顔をまじまじと見ていた。周平は馬鹿にされた気がした。知ってるのをお義理で尋ねたのだ、ということが感じられた。彼はわざと云った。
「分ったの。」
「ええ。」と隆吉は澄して答えた。
「もう何にも分らない所はありませんか。」
「ええ。」と隆吉はまた答えた。
周平は読本を取って、それを読ましてみた。隆吉はすらすらと読んでいった。学校で教わらない所を読ましてみようかと、周平は考えた。然しそれは、教室の授業に対する興味を薄らがせることだった。復習の折に分らない点があれば、いくらでも教えてやらなければいけない。然し予習は、子供自身にうち任したがいい。たとい間違った解釈にせよ、子供自身の解釈を持って教室に臨ませるのが、教室の中を最も溌溂たらしめる所以である。そう周平は信じていた。それで彼は、学校でまだ教わらない部分に就ては、少しも隆吉に教えることをしなかった。然し隆吉は優秀な生徒だった。学校で教わったことはよく頭にはいってるらしかった。……彼はすらすらと読本を読んでいった。それでも一寸した間違いをすることがあった。周平は待ち構えていた。先刻からの小憎らしさの念が積っていた。その間違いを取り上げて、怠慢だと責めつけてやった。隆吉は平気だった。
「知ってるんだけれど、一寸間違ったんだもの。」
周平は更に追窮してやりたかった。然し自分の大人《おとな》げないのを顧みて止した。そして、二人の前には三四十分の無駄な時間が残った。週に一時間ばかりとの約束だった。それは実際、保子が云ったように、ただ名目だけの家庭教授だった。
周平は勝手な図画や習字などで時間をつぶしたかった。然し隆吉はそれを好まなかった。いろんな話を聞きたがった。それをまた周平は好まなかった。じゃ歴史の詳しい話をしてほしい、と隆吉は云い出した。周平は時間つぶしに日本の神話を聞かしてやり始めていたが、それを続けるのもつまらなかった。ギリシャ神話なら興味もあったが、隆吉にはむずかしすぎるだろうと思った。……しまいには二人共黙り込んでしまった。退屈だった。
「散歩にでも行かない?」周平は云った。
「何処に?」隆吉は答え返して落着き払っていた。
周平はその顔をじっと見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。広い高い額の工合が、変に老成じみていた。孤児だという感じがした。
「隆ちゃんは、」と周平は云い出した、「お父さんの顔を覚えているの。」
「覚えてはいないけれど、お祖母《ばあ》さんが写真を持っているから、よく知ってる。」と隆吉は答えた。
「お父さんの写真を!」
「ええ。死ぬ前に撮《と》ったんだって。」
「じゃあそれを僕に見せてくれない? お祖母さんから借りといて。ねえ、いいでしょう。お祖母さんは時々来るんでしょう。こん度の時頼んでおけば、その次の時には持って来て貰えるでしょう。」
その急き込んだ様子を隆吉はじっと見ていたが、それでも、写真を借りておこうと約束した。
「屹度ね!」と周平は念を押した。
九
周平にとって吉川は、保子や隆吉と自分との間に突然つっ立った人物だった。既に故人ではあるけれど、現在まで影を投げてる人物だった。その影のために、保子や隆吉に対する自分の気持が、妙に脅かされるのを彼は感じた。事実の真相を知ったら気持も落着くだろうと思ったけれど、村田の話以上に詳しい確かなことを、誰に聞く術もなかった。せめて吉川の写真でも見て、その顔貌《かおかたち》をはっきり頭に入れたなら、いくらか気持も安まりそうに思えた。その上、それは吉川に対する保子の本当の心を知る便りにもなりそうだった。知ってどうしようとの考えは更になかった。ただ知りたかったのである。――彼は吉川の写真を待った。
然し隆吉は、なかなかそれを見せてくれなかった。祖母がまだ来ない、というのが初めのうちの答えだった。しまいには、とても駄目だと答えた。
「どうして?」と周平は尋ねた。
「いくら探してもないんだって。」
「え、写真がないって!……亡くなる前に撮《と》ったのをお祖母さんが持ってると、隆ちゃんは云ったじゃないの。」
「でもお祖母さんは、いくら探しても見つからないんだって。井上さんに見せるのだからと云って頼んでも、持って来てくれないんだもの。何処かにしまい忘れたんだろうから、出て来たらすぐに持って来てあげるって、そう云ってたよ。」
嘘を云ってるな、と周平は思った。祖母が大事な息子の写真をしまい忘れる筈はなかった。何か理由があるに違いなかった。
「そしてお祖母さんは、別に何とも云わなかったの。」
「ええ。」
「そんな筈はない。何とか云ったでしょう。……誰にも云わないから、ねえ、お祖母さんは何と云ったの。」
「だって、何とも云わなかったんだもの。」
周平はじっとその頸を見つめた。小鼻の小さな高い鼻がつんと澄していた。考え深そうな凸額《おでこ》が黙々としていた。然しその下から覗いてる眼に、困ったような色が浮んでいた。いやに隠してるのだな、と周平は思った。
「隠したって駄目だよ、ちゃんと知ってるから。」と周平は云い出した。そして、悪い意味でその写真を見たがってるのではないこと、隆ちゃんのお父さんだから是非見たいような気がすること、お祖母《ばあ》さんに逢えたらじかに頼んでもいいこと、だから、変に隠されると気持が悪いこと、見せられない理由があるのならあるとはっきり云って貰いたいこと、そんな風に彼は云い進んだ。然し云ってるうちに、自分の方に或る疚しい点が感じられてきた。自ら気分が苛立ってきた。彼は一転して隆吉を攻撃しだした。嘘を云うのは一番悪い、お祖母さんが何か云ったのなら云ったと答えるがいい。どんなことだか云えないのなら強いて尋ねはしない、云ったのを云わないと答えるのは悪いことだ、……などと説き立てた。と彼ははっとして口を噤んだ。隆吉はいつのまにかしくしく泣きだしていた。
身体を軽く机で支え顔を伏せて、肩を顫わせながらすすりあげていた。周平は初めの驚きが鎮まると惘然とした。なぜ泣くのか訳が分らなかった。
隆吉は長く泣き止まなかった。
「どうしたの。え、なぜ泣くんです?」と周平は尋ねた。
隆吉は黙っていた。周平は幾度も尋ねたが、一言の返辞も得られなかった。しまいにはもてあぐんだ。肩ですすりあげながら、身動きもせず、涙もこぼさないで、嗚咽のうちに石のように固くなってる隆吉の姿を、彼はじっと眺めやった。その執拗な気持が、彼のうちにも伝わってきた。彼は口を噤んだ。いつまでも黙っていた。長い時間がたったようだった。
「……だって、お祖母さんは何とも云わなかったんだもの。」
そういう低い声がした。周平はふと顔を挙げた。見ると、隆吉はもう泣き止んで、彼の方を上目がちに窺っていた。
「僕は嘘をつきはしないよ。」
周平はなお黙っていた。不快な気分が濃く澱んできた。眉根をしかめて、其処に寝そべってしまった。
暫くすると、隆吉はまた云い出した。
「本当にお祖母さんは何とも云わなかったんだもの。僕がいくら頼んでも、見つからないといったきり、持って来てはくれなかったんだよ。……でも、も一度頼んでみよう。こんど来たらそう云ってみるから……。」
「もういい。」と周平は云った。
「だって……。」そう云いかけて隆吉は中途で口籠った。そして周平の方へ寄ってきた。「僕もお父さんの写真を見せたいんだもの。たしかお祖母さんが持ってる筈だから……。」
「もう見たくないからいいよ。」と周平は声を荒らげた。
二人は黙り込んでしまった。周平はそれが苦しくなってきた。ぷいと立ち上って室を出た。保子へ碌々挨拶もしないで、下宿へ帰っていった。
陰鬱に雲った空の下を歩いていると、自分の姿が如何にも惨めに思えた。しきりに路上の小石を下駄の先で蹴飛ばした。それに自ら気づいては、また厭な気持になった。
何を自棄《やけ》くそになってるんだ! と彼は自ら自分に浴せかけた。少しく冷静になって反省してみると、恐ろしい気がした。自分の感情がどういう所まで転り出していくか、更に見当がつかなかった。僅かに一枚の写真のことではないか。あれほどこだわる必要は少しもなかったのだ。その上、隆吉に対するあのふてくされた態度は……。彼はひとりでに顔が赤くなるのを覚えた。隆吉に対して済まないというよりも、更に多く恥しかった。
然し、祖母はなぜ吉川の写真を持って来なかったのか? それがどうしても腑に落ちなかった。隆吉の言葉に嘘はなさそうだった。それならば、隆吉にも云えない――もしくは、云っても分らない――
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