理由が、何かあるに違いなかった。恐らくそれは保子に関係したことだったろう。祖母は保子に遠慮して写真を持ってこなかったのだろう。
 周平は益々深い疑問に陥ってゆく自分を見出した。想像に倦み疲れると、凡てを頭の外へ抛り出そうとした。数年前に亡くなった吉川のことなんか、どうでもいいのだと考えたりした。
 それを、保子の方から変な風に問題に触れてきた。

     十

「井上さん、あなたに話があって待ってた所よ。」と保子は云った。
 周平はぎくりとした。頭の底にこびりついていた写真のことがはっきり浮んできた。けれども保子はいつになくすぐには云い出さなかった。いやに落着き払って彼の顔色を窺っていた。周平の方でじりじりしてきた。
「何ですか、話というのは。」と彼は促した。「云って下さい。また叱られるんですか。」
「場合によっては叱ってあげてもいいわ。」と保子は答えながら軽く微笑んだ。
 いつもとは何だか勝手が違っていた。周平はうっかり口が利けないような気がして黙っていた。そして実際保子は、彼が思いもかけないことを云い出した。
「あなたが一番親しい……というよりも、一番よく何でもうち明けてる人は誰なの?」
 周平はぼんやり彼女の顔を眺めた。
「え、誰なの? それとも、そんな人はないんですか。」
「一人あります。」と周平はやがて卒直に答えた。「奥さんは御存じないけれど、野村という同郷の先輩です。法学士になったばかりで、まだ下宿住居をして銀行に勤めています。私は一身上のことは何でもその人に相談しています。昨年学費が杜絶しかかって、もう学校を止そうかと思った時にも、その人が大変力になってくれました。……然し精神上では、それ程親しいという訳ではありません。」
「野村さんのことなら、私もあなたから聞いて知ってるわ。その外には?」
「さあ……何でもうち明けるというような友人は別に有りません。」
「では村田さんは?」
「村田とは随分親しくしていますが、普通の友人というきりです。」
「でも、いろんなことをうち明けるんでしょう。」
 周平は初めて気づいた。村田が何か云ったに違いなかった。あの日のことを考えると不安になってきた。
「私は何も重大な事を村田に相談した覚えはありませんが……。」そう云いながら彼は保子の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。
「重大なことでなくてつまらないことだから、なお始末がいけないのよ。」そして保子はまた微笑んだ。「こないだ村田さんが来てね、小遣を少し借して下さいと云ったけれど、あんまり度々だから、無いって断ったのよ。すると私の顔をじっと見ていたが、何を云い出すかと思うと、奥さんは依怙贔屓《えこひいき》をしていけない、井上ばかり大事にして僕を疎外する、と云うんでしょう。だから私やっつけてやったのよ、井上さんは真面目な途を歩いてるけれど、あなたは不真面目だと。それでもとうとう小遣を持って行かれちゃったの。……あなたつまらないことを饒舌っちゃいけないわよ。村田さんもいい人だけれど、随分でたらめだから、うっかり信用出来ないし、いろんなことを饒舌れもしないわ。」
「それだけのことですか。」と周平は云った。
「まだ何かあると思って?」
 そう反問されると、周平は返辞に迷った。最後の言葉が気にかかった。彼は保子の顔を眺めた。その口許の微笑が変に皮肉らしく、眼の光りが変に揶揄するように、彼には感じられた。彼はそういう風に保子から眺められるのがつらかった。凡てをぶちまけてしまおうかと思った。然しそれをじっと抑えて、漸くこれだけ云った。
「何かあるのなら、すっかり云って下さい。気持にこだわりが残るのは一番厭ですから。」
 保子は黙っていた。美しい眉根を心もち上げて、眼をぱっちり見開いていた。周平は、その眼が自分の心に向けられてるのを感じた。彼はまた云った。
「何かいけないことがあったら云って下さい。私は奥さんから云われることなら本当の心で受けられる気がします。出来るだけ自分で自分を直したいんです。」
「じゃ何か困ることでもあるの。」
「え、私に?」
「ええ。」
「いいえ、何もありません。」と周平は答えた。
「それでは何か聞いたんでしょう。」
「いいえ。」と周平は答えた。
「では何か仕出来したの。」
「いいえ。」
「そんなら、何か気にかかることがあるのね。」
「いいえ。」と周平は答えた。
「おかしいわね。困ることも聞いたことも仕出来したことも気にかかることもないのなら、何もないじゃないの。嘘よ。何かあるんでしょう。隠さずに仰しゃいよ。」
 周平は惘然とした。いつのまにか問う方が問われる形になっていた。彼はそれを元に戻そうとあせった。そして言葉を探してるうちに、保子から先を越されてしまった。
「あなたはまだいやに隠し立てをするのね。何にも隠さないという約束じゃなかったの。その気にかかることを云ってごらんなさいよ。」
 周平は保子の眼の中を覗いたが、そのたじろぎもしない眼差しの前に、眼を外さざるを得なかった。自分の方が負だという気がした。そこからまた絶望的な勇気が出てきた。彼はぶしつけに云った。
「私はつまらないことで隆ちゃんをいじめたんです。」
「あ、あのことですか。」と保子は云った。「あたたも随分|大人《おとな》げないことをしたものね。でも私、初めはどうしたのかと思ったわ。あなたが帰った後で、隆吉がしくしく泣いてるんでしょう。いくら聞いても黙ってるから、何のことかと思うと、つまらないことじゃないの。可哀そうに、子供をいじめるのはお止しなさいよ。そんなに吉川さんの写真が見たいのなら、こんど私が借りてあげましょうか。」
「もういいんです。何だか気がさして、見てもつまりません。……初めは、隆ちゃんのお父さんだから是非見たいように思ったんですけれど……。」
「どうして?」
「どうしてって、ただ……何だか……私の好きな人のような気がしたんです。」と初めは口籠り終りは口早に周平は答えた。
「それだけ?」
「ええ。」
「ほんとに?」
「ほんとです。」
「そう。」と保子は云った。
 二人は口を噤んだ。変に中途半端な気持だった。然し保子はもう何とも云い出さなかった。暫くすると、ふいに尋ねかけてきた。
「あなたは釣魚《つり》は好きですか。」
 周平は今迄の気持が置きざりにせられたのを感じた。咄嗟に返辞が出来なかった。それを保子は構わず云い続けた。暑中になったら横田が釣魚《つり》に行くと云ってること、釣魚の面白みをさんざん聞かされたこと、どうやら自分にも面白そうに考えられてきたこと、それでも、「沢山釣れなければあんな詰らないものはないと云ったら、それはまだ本当の趣味を解せないからですって、」と彼女は結んだ。
 周平はぼんやり聞いていた。まだ心が其処まで動いてゆかなかった。そしてほどよい時に、保子の側を逃げるようにして去った。
 彼には保子の態度が腑に落ちなかった。彼女の話は、頭ばかりが大袈裟で尾《しっぽ》がすっと消えていた。村田のこともそうだった。写真のこともそうだった。そして両方とも、彼はすっぽかされてしまった。村田のことから妙に真剣になって尋ねだすと、いつのまにか主客転倒されてしまい、写真のことから少し深入しかけると、ふいに釣魚《つり》のことへはぐらかされてしまった。それはいつもの彼女の調子とは異っていた。周平は初めからのことを頭の中でくり返した。そしてるうちに、或る筋途が――段取りが――次第に見えてきた。用意して張られた罠だった。その下から、聡明敏感な彼女の眼が覗いていた。
 周平は保子から陥れられたのを感じた。彼女の意のままに操られた自分自身を認めた。然し彼はそれを別に怨みとはしなかった。寧ろ、彼女の前に赤裸な自分の心を投げ出し得なかったのが、後から考えると悲しかった。ただ彼が不満に思ったのは、彼女がそういう手段を用いたことだった。いつものように真正面からぶつかって来なかったことだった。そしてまた、なぜ彼女はそういう態度を取ったのか? という疑惑も生じてきた。その疑惑はやはり吉川のことの上に及んでいった。
 不満と疑惑とのうちから覗くと、彼女の心は益々捉え難い遠くへ離れ去っていくように思えた。自分一人迷霧の中に残されたような気がした。彼は気持が苛立ってくるのをどうすることも出来なかった。その苛立ちの念から、知らず識らず隆吉に対して更に冷淡になっていった。
 二三の質問に応じて形式だけの義務を尽すと、周平は残りの時間を利用してやろうという気も起さないで、疊の上にごろりと横たわった。室の窓から夾竹桃の梢越しに、狭い空が見えていた。雲の影も鳥の姿も宿さない静かな空だった。じっと眺めていると眼が疲れてきた。瞬きをして顔を横向けた。隆吉はやはり机の前に坐りながら、ぼんやり書物に眼を落していた。心では他のことを考えてるらしかった。それも、怠惰からではなくて、怜悧な頭の余裕からであった。どんなことを考えてるのだろう? そう思うと小憎らしくなった。
 隆吉は彼の顔をちらと見て、心持ち身体を押し進めてきた。
「井上さん、僕お父さんの夢を見たよ。」
「え、どんな夢?」と周平は云った。
「お父さんが宙に飛んでたの、真直に飛んでた。」
「それから?」
「それきり覚えていない。」
 周平はその眼をじっと見入った。そして云った。
「本当?」
 隆吉は眼をくるりと動かした。口を尖らし小鼻を脹らまして、泣き出しそうな顔をした。
「井上さんはいつでも、僕の云うことをなぜ嘘だと思うの。」
「嘘だと思ってやしない。」と周平は答えた。
「だって……。僕は嘘をついたことは一度もないんだのに……。」
「だから嘘だと思ってやしないよ。」
 二人はそれきり黙った。隆吉は机の方へ向き直って、書物をこそこそ弄りだした。暫くするとまた振り返った。然し周平の黙りこくってる様子を見て、再び机の方を向いた。周平が居る間は、することが無くても、兎に角勉強の時間ときめてるらしかった。それがまた周平には不快だった。いい加減辛抱した後、彼はぷいと立ち上った。
 然しその後で彼は、自分の態度を自ら責めた。横田ら二人の好意に報いるには、出来るだけ隆吉に親切を尽してやるべきだった。今の場合彼にとって、月々の二十円は非常に有難かったのである。

     十一

 漢口《はんこう》の水谷から送ってくる僅かな学費は、ともすると途切れがちだった。向うの店に行って働くことを断った後、そういう決心ならばといって無条件に恵んでくれる志だっただけに、こちらから催促するわけにはいかなかった。而も水谷は周平の遠縁に当るきりで直接の縁故がなかった。学費も、周平の保護者みたいな地位に立ってる野村の許へ送ってきて――銀行の関係から便利なせいもあったろうが――周平は野村の手から受取っていた。彼は初めからの行きがかり上、野村に金を借りることも、水谷に余分の請求をすることも、意地として出来なかった。郷里の自家の没落と共に、近しい親戚には多大の迷惑をかけてるので、其方へ縋る訳にもいかなかった。「一人でやっていく!」そう彼は公言したのだった。
 困る時には書物を売り払ったり、或は着物の包みを抱えて質屋へ行ったりして [#「行ったりして 」はママ]兎も角も一時の凌ぎをつけていた。然しそれも長くは続かなかった。やがて、書物は無くなり、着物は流れてしまった。下宿の払いもたまった。そして途方にくれてる所へ、横田の助けを得たのだった。その補助で漸く月々が越していけた。
 横田のことを思うのは、彼にとって力であった。更に、横田夫人――保子のことを思うのは、彼にとって慰安でもあり光明でもあった。彼は長らく休みがちだった大学へも、落着いて通えるようになった。
 それが、変に心が外れ出したのだった。また学校を休みがちになった。朝は遅くまで寝てることがあった。何をしても面白くなかった。勉強するのもつまらないような気がした。何を考えるともなくぼんやりしてると、いつのまにか保子の姿を思い浮べていた。次の瞬間には吉川の死のことを考えていた。そしてふと、隆吉が吉
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