一方に輝かしい日が続くと共に、一方には惨めな日が続くのだ。吉川さんは、半ば自棄《やけ》になって、或る女の誘惑に陥ってしまった。而も失恋して間もなくのことなんだ。性格が弱かったんだね。その女というのが君、有名なあばずれなんだ。僕も或る処で一寸顔を見たことがある。美人でもない癖に、いやにつんと澄まし込んで、眼ばかり色っぽく働かしていた。元はカフェーの女中をしていたとかいう話だが、其後或る文学青年と同棲し、次には、或る新帰朝者――だか何だか分ったものじゃないが――それと同棲し、また其処を飛び出して、うろうろしてた所へ、吉川さんがひっかかったわけさ。すると、へまな時は仕方がないもので、その女が、妊娠しちゃったんだ。全く妊娠するような女じゃないんだがね。それから吉川さんの苦悶が始まったのだ。漸く母親の了解を得て――母親一人だったのさ――一緒に住むようになったのだが、男の児が産れて後は、吉川さんは惨めなものだった。女は始終飛び歩く。その上、母親や吉川さんと事毎に衝突する。子供は消化不良になって、乳母をつけて病院へはいらせる始末なんだ。吉川さんはどの位苦しんだか知れない。女の無駄使いのために、僅かな財産はすぐに減っていく。自分の未来は暗澹としてくる。その間に立って、子供の面倒をみながら、女といつも諍《いさか》いばかりしながら、女と別れることも出来ないで、じっと我慢していた吉川さんの心を思うと、僕は堪らない気がするよ。それが二年間も続いたのだ。二年目の終りに、女はとうとう逃げ出してしまった。吉川さんと合意の上だとの話だが、無理強いの合意なんだろう。なぜって、女もさすがに居堪らないとみえて、大阪の方へ行ってしまったそうだから。そして、それきり行方不明さ。また誰かを取捉えてるに違いない。高井英子とかいっていたが、それだって本名かどうだか分りゃしない。
「女と別れてから、吉川さんは子供相手に家にばかり閉じ籠っていたが、一月ばかり後に、急に死んでしまった。病名は急性脳膜炎だというんだが、自殺だとの噂もある。当時吉川さんは、深い憂鬱に沈み込んで、時々襲ってくる神経の苛立ちと興奮とを、酒でごまかしていたそうだが、その後では更に深い憂鬱に陥ったとの話だ。その死後、医学と薬理学との書物が本箱の中から見出されたそうだ。が兎に角、病死にせよ、自殺にせよ、吉川さんは俄に世を去ってしまったのだ。そして後に、母親と子供とが残った。」
村田ははたと口を噤んで、何かを考えるような眼を見据えた。
息をついてさっと吹く風と共に、大粒の雨が落ち始めて、それが瞬く間に沛然と降り注いだ。宵闇の中に妙に明るい雨脚が、軒や樹木に、どっと魔物のように落ちかかった。二人は縁側の障子を閉めて、ぼんやり雨音に耳を傾けた。心は他に在った。
「それから、」と村田はやがて語り続けた、「吉川さんの母親と子供――即ち祖母と孫とは、悲しい日を過した。お祖母《ばあ》さんにとっては、その子供が推一の慰藉であり、子供にとってはお祖母さんが唯一の頼りだった。そしてお祖母さんは、子供を育て上げることに残りの一生を捧げたのだ。
「この二人に次で、吉川さんの死から可なりの打撃を受けたのは、横田さんと保子さんとだった。直接関係はないけれど、心には可なり響いたらしい。それでも横田さんの方は、云わば勝利者なんだ。勝利者が敗北者の破滅に対して懐く同情は、勝利者にとって、いつでもさほど高価なものではない。然し保子さんの方は、心の奥に一種の傷を受けざるを得なかったのだ。たとい当面の責任者ではなくとも、間接の責任はある筈だ。……そういう訳で、二人の愛情は吉川さんの死から毒された。然し愛情というものは、傷ついた獣のように、痛手を受ければ受けるほど、益々激しく狂い廻るものなんだ。横田さんと保子さんとは更に深く結びついたらしい。そして、吉川さんの一周忌がすんだ翌年の春、結婚して新らしい家庭を持ったのだ。
「吉川さんの家の方では、お祖母《ばあ》さんが仕立物やなんかをして、つつましく暮していたが、それでも僅かな貯蓄は残り少なになるし、子供も大きくなったので、お祖母さんは大奮発をしたものだ。豪い人だと僕はいつも感心をしている。その大奮発というのは、子供を親戚の家へ預け、自分は他人の家へ針仕事などを主とする女中奉公をし、そしてとにかく、子供の未来の学費を残して置こうというのだ。
「お祖母さんのそういう殊勝な決心を聞いて、横田さんは、自分の家で子供を世話しようと云い出したのさ。その気持は僕には一寸分りかねる。第一に君、子供を始終側に置いとくことは、過去の記憶をまざまざと甦らすことで、横田さんにとっても、保子さんにとっても可なり痛いことだろうと思う。それによって二人の愛情を更に強く燃え立たせるというほどの、若い浮々した年齢でも時期でもないんだからね。或は一種の罪亡しのためかも知れないが、それでは余りに善良で愚昧すぎる。お祖母さんに対する同情と感激とからだとするなら、何も老人を女中奉公に出さずとも、他に方法がありそうなものだ。一体横田さんには一寸底の知れない深さがあるから、何を考えてるのか想像のつかないことがよくあるのだ。そのことだって、何か考えがあってのことだろう。或は保子さんのあの生一本《きいっぽん》な性情から出たことかも知れない。それは兎に角として、横田さんの申出をお祖母さんは非常に喜んだ。そして子供は横田さんの家に引取られた。それがあの隆ちゃんなんだ。お祖母さんの方は、或る下町の、何でも株屋の主人とかいう話だが、そこの女中の取締みたいにして雇われてるそうだ。針仕事が非常に上手なので、殊に重宝がられて、わりに幸福だとかいう話だった。」
村田が話し終えるまで、周平は注意深く聞いていた。うっかり信用出来ないぞという気がした。村田の話には余りに主観的の分子が多かった。説話と註解とが同じ位の分量になっていた。そして肝要な点が妙にぼやけてるくせに、或る部分は余りに深く立ち入りすぎていた。
「どうして君はそう詳しく知ってるんだい。」と周平は尋ねた。
「吉川さんの家と親しくしていた人があって、僕はその人から直接に聞いたことなんだ。確かな事実だ。……ただ、心理の方面のことは、分り易くするために僕が解釈を下したんだが、全く事実に即しての上だから、間違いはない。」
確信の調子で得意然としてる村田の顔を、周平は暫くじっと見戍っていた[#「見戍っていた」は底本では「見戌っていた」]。未来の小説家を以て自任してる村田のことだから、事実を歪めて勝手な想像を加えてる点が、必ずしも無いとは云えないのだった。然し話の全体の筋は何としても肯定せざるを得なかった。
幸福なるべき横田の家にあって、なお隆吉の身にまつわってる淋しい孤独の影を、周平は思い合した。
「横田さんや奥さんは、今でもなおそのことを苦しんでるだろうか。」
「さあ……。」と村田は答えた。「然し何事でも、当事者になると側《はた》から想像するほど苦しむものじゃない。人生は寧ろ一種の喜劇だからね。真剣のつもりでも案外冗談のことが多いものなんだ。」
「その代り、冗談のつもりでも案外真剣のことが多い場合もある。」
「それはそうさ、だから人生は喜劇なんだ。」と村田はいやにそのことを主張した。
周平は口を噤んだ。彼は議論をしたくはなかった。ただ事実をじっと考えたかった。村田が先刻の話からけろりとして、盛にいろんなことを論じかけるのを、彼は簡単に受け答えして、しきりに杯の数を重ねた。頭がくらくらしてきた。
いつのまにか雨は止んだらしかった。あたりはしんとしていた。向うの室の客の話声も途絶えていた。
「もう帰ろうか。」と周平は云い出した。
「ああ」と村田は答えて、俄に思い出したように、銚子の底に残っている冷たい酒を貪り飲んだ。
外に出ると、綺麗に晴れた空をごく低く、薄白い雲が千切れ飛んでいた。雲の間から冴えた月が覗いていた。月の面を仰ぐと、湿っぽい冷かな風がさっと頬を撫でて、ぽつり……ぽつり……と、名残りの雨が落ちかかった。
村田はふーっと酒臭い息を吐いて云った。
「いい晩だね。」
それから二三十歩した後、彼は突然周平の方を振り向いた。
「君、吉川さんの話を余り気にかけちゃいけないぜ。」
「なぜ?」
「なぜってもう過ぎ去ったことじゃないか。それに、君は余りつまらないことにこだわり過ぎる傾きがあっていけない。こだわった揚句には、とんだ尻尾《しっぽ》を出す危険がある。兎に角ああいう話を僕や君が詳しく知ってるということは、横田さん達にとって快《こころよ》いことではあるまいと思うんだ。」
電車通りに沿って暫く進んだ後、周平の下宿の方へ行く曲り角で、二人に立ち止った。
「君はこれから下宿へ帰るのか。」と村田は尋ねた。
「ああ。」と周平は答えた。
村田はその顔をじっと眺めていたが、ふいに、「じゃあこれで失敬しよう、」と云い捨てて立去っていった。
周平は一人薄暗い街路に残された。
七
一人になって初めて周平は、先刻の村田の話からひどく心を動かされてることに、自ら気づいた。酒の酔から来る興奮も手伝っていた。感傷的な悲壮な気分のうちに浸っていた。
彼は下宿の方へ帰って行かずに、ただぼんやり歩き出した。雨は全く霽れていた。冷かな風が月の光を運んできた。彼は月を仰ぎ仰ぎ歩いていたが、やがて静かな横町へ曲り込むと、いつしか首垂れて考え込んだ。
彼は、横田夫婦と隆吉とのことを考えていた。彼等の運命にまつわってる陰影のことを考えていた。話は数年前のことであったが、未来長く尾を引くもののように感じられた。その上、村田の話に洩れた何かが、より重大な何かが、実際にはあったのではないかという気がした。彼は暗い方へ暗い方へと想像を向けていった。殊に保子に就てそうだった。彼女が深い傷を心に負って、一人ひそかに苦しんでいる、そういう風に想像したかった。吉川の死が自殺の死であって、而も直接に保子と何等かの関係がある、そういう風に想像したかった。そして、この想像が自分の心に甘えていることを、周平は意識した。然し何故にそうであるかをつきとめない単なる意識だったから、少しも想像を抑制する力にはならなかった。
悲痛な実は甘いいろんな想像にうみ疲れると、彼の頭の中には、隆吉の姿がしつこく浮び出て来た。頭の大きなわりに細《ほっ》そりとした体躯、凸額《おでこ》の中から睥めるように物を見る眼、小鼻の小さな高い鼻、細い腕、長い指、それらが変に不気味だった。きっとしまった口、恰好のよい長い顎、すらりとした頸筋、笑う時に出来る左頬の片笑靨、それらが如何にも可愛かった。平素何とも思わなかった隆吉の姿から、今その不気味な点と可愛い点とが、はっきり二つに分れて周平の頭に映じた。彼は愛憎の念に迷った。
深く考えに沈みながら歩いていると、ばさりと音を立てて足に触れたものがあった。不意だった。ぞっと身体が悚《すく》んだ。寂しい通りに、軒灯の光りが淡く流れていた。青葉をつけた木の枝が一本落ちてる中に片足を踏み込んでるのだった。足を抜こうとすると、ばさばさと音がして枝が一歩ついてきた。またぞっとした。やけに枝葉を払いのけて、五六歩足を早めた。冷たい汗が腋の下に流れていた。
彼はつとめて平静に返ろうとした。けれども、何かに追い立てられてるような不安さが消えなかった。そのことに気を取られているうちに、いつのまにか自分の下宿の前まで来ていた。つと中にはいった。喉《のど》が渇いていた。面倒くさいので、洗面所へ行ってそこの水道の水を飲んだ。
自分の室にはいると、すぐに寝てしまった。遠くでするような軽い頭痛を覚えた。頭痛の合間合間に彼は、保子のことを縋るようにして考えた。悲しげに微笑みかけてくれるやさしい姿だった。
然し、朝になると彼は、もうその幻に浸ることが出来なかった。清純な一徹な光りに澄みながら底に謎を含んだような彼女の眼が、じっと彼を眺めていた。彼は心の据え場に困った。
八
「井上さん、あなたはこの頃何だか様子が変よ。心配事でもあるの
前へ
次へ
全30ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング