「冗談じゃないよ。真面目に云ってるんだ。」
「僕も、だから真面目に聞いてるよ。」
 二人は暫く黙って歩いた。やがて周平はこう云い出した。
「今日僕は、横田さんにへまなことを云ったような気がする。」
「え、……だって君は何もそんなことは云わなかったじゃないか。」
「君が一寸座を外した時に云ったんだ。」
「一体何のことだい?」
 周平は頭の中で筋途を立ててから、初めからのことを順次に述べた。そしてこうつけ加えた。「奥さん一人でしたことか、または横田さんと相談の上でのことか、それはどちらだって僕に関わりはない。然し、もし奥さんが横田さんに内密《ないしょ》のつもりだったんなら、僕はとんだことを横田さんに云ったわけになる。僅かな金のことなんだけれど、気持の上には可なり響くことだからね。……横田さんが知ってたかどうか、僕にはさっぱり見当がつかないんだ。君はどう思う?」
 村田は黙って聞いていた。周平が云い終えてもなお黙っていた。
「君はどちらだと思う。」と周平は促した。「大凡の見当をつけて置かないと、僕は何だか気に懸って仕様がないんだ。」
「だって、それだけじゃ僕にも見当がつかないね。」
 周平はまた詳《くわ》しく、保子と横田とのそれぞれの態度を、頭に浮ぶまま話してきかした。
 それから暫くして、通りの曲り角になった時、村田は突然大声でいった。
「分ったよ。」
 周平は喫驚して足を止めた。
「君も随分頭の鈍い男だね。」と村田は猶歩き続けながら云った。
 周平は二三歩足を早めて、その後から追いすがった。
「どう分ったんだい?」
「勿論横田さんは知っていたのさ」と村田はきっぱりと云ってのけた。
「そうだろうか。」
「そうにきまってるさ。どちらから云い出されたことかは分らないが、兎に角二人で相談の上のことだよ。第一奥さんは、良人に内密《ないしょ》で何かするような人じゃない。」
「それは勿論僕も信じてるけれど、然し今日の横田さんの態度が……。」
「腑に落ちないというんだろう。だから君は頭の働きが鈍いんだ。」
「なぜ?」
 村田はそれに答えないで、外のことを云い出した。
「なるほど、余計なことを考えてたから、今日は早く帰ると云い出したんだね。お蔭で僕まで夕飯の御馳走になりそこねちゃった。何処かで飯を食わないか。……つき合ってもいいだろう。」
「ああ、それは構わないが、今のことはどうなんだい。僕にはまだ分らないが」
「至極簡単なことじゃないか。」と村田は云って、確信の調子で説き明した。――横田さんが周平の言葉に取合わなかったのは、心あって空呆《そらとぼ》けたのだ。横田さんは人に恩を売ることが嫌いな人格者だから、わざと知らない風をして、周平に気持の上の負目《おいめ》を与えまいとしたのだ。また、もし奥さんが内密でしたことならば、初めに何とか断る筈だし、次に周平が金を返しに行った時、そんなに高飛車に出る筈はない。横田さんと相談の上だという強みがあるから、高飛車にも出られたわけだ。それをとやかく気を廻すのは、更に愚を重ねることになる。素直に向うを信頼すべきである。
 周平はそれらのことを黙って聞いていた。そして、横田さんの態度はよく腑に落ちた。然し奥さんの方は、何だかそれだけでは解き尽せないような気がした。それかって、別な理由も見出せなかった。で結局は、村田の意見を最も至当なものと認めるの外はなかった。
「どうだ、明察だろう。」と云って、村田はつんと頭を反らした。
「大体はそれで分るようだが……。」それでも周平はなお一寸逆ってみたかった。
「大体だけじゃない、すっかり分ってるさ。それにきまってるよ。それにねえ、横田さん夫婦は、君が想像するような水臭い間《なか》じゃない。僕はそのために一寸困ったことがあるんだ。」
 村田はくるりと後ろを向いて風を避けながら、煙草に火をつけた。そしてこんなことを云い出した。
「僕は金がなくなると、よく奥さんに小遣を借りに行くんだがね……。」
 周平は驚いて彼の横顔を見やった。平素可なり贅沢をしている村田にそんなことがあろうとは、何としても不思議だった。それに、保子とも村田とも随分親しくしているが、まだ嘗てそんなことを、言葉には勿論、様子にも見せられたことがなかったのである。彼は黙って話の続きを待った。「勿論借りっ放しさ。」と村田は平気で云い続けた。「然し、横田さんに知られると一寸困るものだから、奥さんにはその度毎に、内密《ないしょ》にして下さいと頼んでおいた。所が、或る時横田さんから、何かの話のついでに、君のように妻から度々金を引出すのも困ったものだと、だしぬけに云い出されて、僕は実際弱っちゃった。横田さんが、云ってしまってから、はっと気付いたように口を噤んだので、僕は猶更|悄《しょ》げてしまった。……頼んでおいたことでさえこうなんだ、君の此度のことを、横田さんが知らない訳があるものか。だが、君が特別に奥さんから贔屓《ひいき》にされてるという自惚があるのなら、問題はまた別だがね。」
 周平は痛い所をちくりと刺されたような気がした。それだけにまた、不快な厭な気持になった。彼は黙っていた。
 村田は彼の様子をじろりと眺めたが、急に話題を転じた。
「君、横田さんの野心……抱負と云った方が本当かな、それを君は……。」
 丁度その時、二人は或る肉屋の前を通りかかった。村田は足を止めた。
「ここで肉でもつっつこうじゃないか。」
 二人は中にはいった。

     六

 村田は大酒家だった。周平も可なりいける方だった。二人は飯を忘れて、しきりに杯を重ねた。暑くなると障子を開け放った。もうすっかり暮れていた。庭の植込《うえこみ》のなかに淡い柱灯がともっていた。凸凹をなした庭の窪みに、小石を敷いた大きな空池があって、風に揺ぐ植込の茂みの間に、ちらちら見えていた。縁側から覗くと、谷間のような感じだった。その方を眺めながら、取留めもない話をしてるうちに、二人は可なり酔ってしまった。新らしく銚子を持ってくる女中が、肉の鍋に何度も割下を注《さ》していってくれた。
「君と酒を飲むのは暫くぶりだね」と村田は縁側の柱によりかかりながら云った。
 周平は彼の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。あの頃短い五分刈だった村田の髪は、今は長く伸されて後ろに掻き上げられていた。苦しい境遇に陥った自分の身が顧みられた。それと共に、横田氏等の同情がしみじみと感じられてきた。
 彼は突然云い出した。
「君、このまま黙っていていいだろうね。」
「何を!」
「横田さんと奥さんとに……。」
「いいさ。好意は黙って受けるものだよ。君は余り神経質でいけないんだ。僕だったら、初めっから奥さんにも横田さんにもお礼なんか云わないね。」
 受けるものは黙って受けよ――場合によっては貪っても構わない――というのが村田の主義だった。或る好意を受ける時、昔は礼を云うのが道徳だった。現代では、礼を云わないのが道徳なのだ。現代人の微細な神経は、施す好意を無条件で黙って受けられる方が、より多く施し甲斐を感ずるものだ。受ける方から云えば、口先の感謝で心の負目《おいめ》を軽くしようとするのは、卑怯な態度である。
「君のようにいやにこだわるのは、全く時代錯誤だ、もしくは、一種の僻みだよ」
 周平は村田の言に逆説を認めはしたが、最後の言葉を聞いて、先日保子からも僻みだと云われたことを思い出した。果して自分のうちに一種の僻みがあるのかしらと考えてみると、僻みとまでは云えなくとも、少くとも余りに神経過敏の点が認められた。彼は厭な気がした。その問題に触れたくなかった。ふと思い出して、別のことを云い出した。
「先刻《さっき》君が云いかけた横田さんの野心というのは、一体どんなことだい。」
「うむ、あれか。」と答えて村田は一寸眼を見据えた。「なにつまらないことだよ。誰にだって、野心だの抱負だのはあるものだからね。……それよりも、面白い話をしてきかせようか。君の参考にもなるかも知れない。」
「是非きかしてくれ」と周平は云った。
 それでも村田はなかなか云い出さなかった。周平が促すと、困ったような眼付をした。
「さあ……君になら云っても構うまいけれど……然しこれこそ本当の内密《ないしょ》だぜ」
 村田は杯をぐっと一口に干して、次に煙草を一息深く吸い込んで、それから話しだした。
「君が教えてやってる隆ちゃんね、あれは横田さんの子でもなければ、奥さんの子でもないことは、君も知ってるだろう。」
「知ってるとも、第一奥さんはまだ二十五六だろう。あんな大きな子があってたまるものか。……何でも、親戚の子を事情あって引取ってるのだと、僕は奥さんから聞いたんだが」
「その事情というのに、悲痛なロマンスがあるんだ」
 周平は眼を見張って、村田の言葉に耳を傾けた。
「僕も悉しいことは知らないんだがね、隆ちゃんは、横田さんの従兄《いとこ》と或る女との子なんだ。横田さんと奥さんとが、まだ単に友達というに過ぎなかった頃のことだが、その従兄――たしか吉川とかいう名前だったが、その人もやはり、奥さん……いや保子さんと云った方がいい……保子さんと知っていた。横田さんの父親と保子さんの父親とは親しかったから、自然に両方の家族関係の人達も知り合いになったのだろう。所が、その吉川という人が、保子さんに恋をしたんだ。然しごく内気《うちき》な人だったものだから、独りで考え込むきりで、誰にも黙っていたのだ。そのうちに、横田さんと保子さんとの結婚の話がまとまって、二人は公然と許婚《いいなづけ》みたいな交りをすることになった。それを見て吉川さんはひどく煩悶しだした。遂には堪りかねて、横田さんに自分の思いをうち明けたのだ。へまだったんだね。直接保子さんにうち明けた方がよかったかも知れないと、僕は思うんだがね。横田さんはそれを聞いて、非常に困ったものだ。何しろ、横田さんと保子さんとの互の気持が、可なり進んでる時なんだろう。それでも横田さんはああいう人だから、自分自身を一歩高い所へ置いて考えた末、保子さんの選択に任せるの外はないと結論したのだ。これは横田さんの人格者たる所以でもあるし、また一方からいえば、聡明なる所以でもあるのだ。なぜかって、保子さんの選択は初めから分りきってる。既に二人の間は、両方の親の了解もあるし、互の気持も進んでるし、それに、吉川さんの家は零落していたものだ。吉川さんは、詩人的素質を備えた天才肌の人だったそうだが、貧乏な天才詩人というものは、恋人にはいいか知れないが、良人としては不向きだね。人間に何となくどっしりした所のある横田さんとは、少し均衡がとれない。どの点から考えて見ても、保子さんは横田さんを選ぶにきまってる。
「所が、保子さんはなかなかその選択を与えなかったのだ。そして、二人に向って或る問いを発したものだ、あなたは私を恋人として愛するのか、もしくは良人として愛するのかって」
 村田はそこで言葉を切って、周平の顔を覗き込んだ。周平は変な気がしてきた。
「本当の話なのか。」と彼は尋ねた。
「本当だとも。そこが如何にも奥さんらしいじゃないか。」
 周平は黙って村田の顔を見返した。
「勿論保子さんのそういう問いは、」と村田は話し続けた、「僕等が考えるほど理智的なものではなかったんだろう。保子さんのうちには、君も知ってる通り、理性と感情とが一つに綯れ合って働いてゆくのだから。所がその問いに対して、二人はどう答えたと思う?」
 そして村田は眼を輝かした。
「横田さんはこう答えたのだ。愛に二つはない、私はただあなたを愛するきりだ。吉川さんの方はこうなんだ。私はあなたを恋人として愛する。そこで、保子さんは横田さんを選んでしまった……そうだ。その辺の機微は、僕も実はよく知らないんだがね。」
 周平は何だか狐にでもつままれたような気がして、ぼんやり村田の顔を見つめた。
「然しまあそんなことはどうでもいいさ。兎に角、横田さんの方が選に当ったと思い給え。」と村田は弁解するような調子で云った。「それから先は、例の通り、恋の勝利と敗北とだ。
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