べこべに向うから揶揄《からか》われてることを感じた。彼は率直に云い出した。
「昨日《きのう》、お礼の包みの中に二十円はいっていましたよ。それで余分の半分だけ、返しに上ったんです。五円紙幣と十円紙幣とを間違えられたのではありませんか。」
「そのことで今日《きょう》わざわざいらしたの」
「ええ」
「あなたは嘘つきね」
「いえ、実際二十円あったんです。」
「そんなことじゃないわよ」と保子は云った。「昨日あなたは、お金のことは口にするのが厭だと云っといて、今日はお金のことでわざわざ来るなんて、嘘つきだわ。それに、人があげたものを返しに来るなんてことが、あるものですか。」
 変に調子がきびしかったので、周平は呆気《あっけ》にとられてしまった。何が保子の気に障ったのか、彼にはどうしても合点がいかなかった。彼はただ黙って、彼女の顔を見ていた。
 周平が黙ってるのを見て、保子は止めを刺すようにずばりと云ってのけた。
「あなたが気持の上で嘘をついたり、変な他人行儀をしたりするんなら、私の方からもそうしてあげるわ。」
 何という無茶な云い方だろう、と周平は思った。と共に、それが何だか嬉しくもあった。然し黙ってるのも余りに意気地がなかった。相手の考えにはおかまいなしに、自分の思う所だけを云ってしまわなければ承知しないというような、保子の一徹な眼の光りから、周平は視線を外らしながら、種々に弁解し始めた。――今迄十円だったのが、今度俄に二十円になっていて、而も一言の断りもない以上は、勘定の誤りかも知れないと考えるのは至当であること、金銭問題を口にするのは固より嫌いではあるが、それを口実にして不当の利得を着服するのは、人格的に下劣な行いであること、一言の断りさえあれば、その好意を喜んで受けるだけの雅量はあること、受けるものなら正当に受け、受けてならないものなら立派に返すのが、本当だと思ってること、そういう自分の行為を非難されるわけはないこと、などを彼は廻りくどい調子で説いた。そして最後につけ加えた。「私はどう考えても、あなたから叱られるような訳はないと思っています。」
「いつ私があなたを叱って?」と保子は云った。
「でも腹を立てて非難するのは、叱るのと同じじゃありませんか。」
「私ちっとも腹を立ててやしないわ。けれど、こちらの気持をそのまま受け容れて貰えないのは、不快なことじゃなくって?」
「それはそうですけれど、いくら気持は分っていても、はっきりした言葉がなければ困ることもあるんです。」
「お金のことがそうだと云うんでしょう。だからあなたは素直でないのよ。お金ということにいやにこだわるのは、あなたに僻《ひが》みがあるからよ。」
 そう云われてみれば、彼は一言もなかった。困難な生活をしてる余り、金銭に対して妙に神経質になるのは、一種の僻みからであるかも知れなかった。然しそればかりでもない、と彼は考えた。そして云った。
「然し金銭問題は、一番厭な不快を招くことがありますから。」
「それがあなたの僻みよ」
 そう押被《おっかぶ》せられると、彼は口を噤むより外仕方がなかった。黙ってると、保子は暫くしてこう云った。
「分って?」
 彼は顔を挙げた。自然に澄みきった彼女の眼とやさしい顔とが、すぐ前に在った。それをじっと眺めながら、彼は咄嗟に云った。
「では黙って貰っておきます。」
「え?」
 小さな眼が一杯見開かれてきょとんとしていた。周平は云いなおした。
「分りました。」
 一方へ持っていかれた心がまた他方へ引戻されたというように、彼女は中途半端な顔付で、一寸上目を見据えたが、やがて両方とも腑に落ちたらしく、じっと周平の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。「馬鹿な人ね、」とその眼付が云っていた。
 彼ははぐらかされたような気持になった。口先だけで云ってみた。
「奥さんくらい気むずかしい人はない。」
「そう。」と彼女は気の無い返辞をした。
 彼は口を噤んだ。いやに考え込んでしまった。

     四

 それは、謎を投げかけられたような気持だった。
「奥さんくらい気むずかしい人はない、」と彼が独語めいた調子で云ったのは、表面からの言葉だった。裏面から云えば、「奥さんくらい無頓着な人はない、」となるのであった。相手の正当な申出を頭からけなしつけたのが、気むずかしいのだった。相手の考えを眼中に置かないで独り合点をしてるのが、無頓着なのだった。其処に、周平の眼に映じた保子の二方面があった。そしてこの二方面は、実は同一性格の両面に過ぎなかったが、それが親切とか好意とかの衣に包まれて、一つの事柄に就いて一人の者に対して同時に現わされたために、変な不調和を示したのだった。周平は二つの心に相対したような感じを受けた。一つの心は、思いやりのない得手勝手な冷かなものだった。も一つの心は、個人と個人との境界を無視した温い抱擁的なものだった。
「自分に対する保子の心は、二つのうちの何れなのかしら?」と周平は考えた。考えようによって、どちらにもなりそうだった。彼はその間の去就に迷った。さりとて、両方だときめるのは、今の場合彼にはつらかった。彼は保子から、冷淡か温情かの何れかで遇して貰いたかった。峻烈な批判を加えられるか、或は温く抱擁されるか、何れかでありたかった。
「それは兎に角、自分は忘恩者でありたくない、」と彼は、問題をそのまま抛り出して、別な結論に辿りついた。そして、夫人へはこのままでいいとして、横田氏へは一言感謝の意を申して置きたかった。
 周平は、水曜の午後少し遅く出かけていった。
 横田は、週に四回商科大学で語学を講じていた。然し彼は元来文学者だった。折にふれて新聞雑誌に、外国文学の紹介をすることなどもあった。未来は批評を以て立つつもりだった。それで彼の周囲には、文学を愛好する青年の小さな群が出来ていた。その連中がいつとはなしに、水曜の午後から晩へかけて、横田の書斎に集ることになっていた。水曜が彼の最も隙な日だったから。
 周平は他の日にわざわざ訪問したくなかった。実は、隆吉の学課をみてやる月曜なら最も好都合だったが、その日横田は夕刻まで授業があった。それで、最も行き易い水曜を選んだ。
 門をはいって玄関に立った時、彼は先ず其処に在る下駄を見廻した。幸にも客は一人か二人位らしかった。彼は安心した。
「丁度村田さんが来てるのよ」と保子から云われた。
 彼は先ず保子や隆吉を相手にするつもりだったが、村田なら、その方へ行かざるを得なかった。
 横田と村田とは、寝転んで将棋をさしていた。二人共周平の方に一寸眼を挙げて「やあ。」と云ったきり、また盤面を見つめた。周平はその側に足を投げ出した。村田の方が少し上手だった。横田は負けを諦めかねて、幾度もさそうとした。
 周平はつまらなくなって、両手を頭の下にあてがいながら、仰向に寝転んだ。窓から青い空が見えていた。その狭い四角な青空の中に、白い断雲がぽつりと現われてきては、またすぐに飛び去っていった。風が少し出ていた。周平は軽い苛立ちを覚えた。立ち上って、書棚の隅から外字雑誌を取ってきては、その※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵を眺めたりした。
 やがて、横田は将棋の駒を抛り出して云った。
「今日はどうもいかん。またこの次にしよう。」
「とうとう兜をぬぎましたね」と村田は得意げに云った。
 それから二人は、周平の方に話しかけた。周平は浮かぬ顔付をしていた。
 村田が便所に立った時、横田は周平の顔をまじまじと眺めて尋ねた。
「何だかいやに考え込んでるようじゃないか。どうしたんだい?」
 丁度よかった。村田が座を立った僅かな間に、軽く問題を片附けてしまおう、と周平は思った。向うの言葉に頓着なく、いきなり云い出した。
「いつもお世話にばかりなっていまして済みません」
 横田は大きな眼をくるりと動かした。
「なに、お互いっこじゃないか。」
「それに、」と周平は云い進んだ、「こんどなんかは、余分に謝礼を頂いたりして、申訳ない気がします。」
「ああそうだったかね。妻が何か気を利かしたんだろう。……まあいいさ、そんなことは。黙って貰っとけばいいじゃないか。」
 周平は変な気がして、横田の顔を見上げた。横田は眼を外らしていた。右手の指にはさんだ煙草の煙を天井の方に吹かしながら、鴨居の額面をぼんやり眺めていた。
「それでは……、」あなたは御存じなかったのですかと云いかけて、周平ははっとした。そんなことを云ってはいけない気がした。そして、中途で切った言葉の続きに迷った。それを無理に云い進んだ。「余り勝手すぎるようですから……、」一応奥さんにと云いかけて、彼はまた口を噤んだ。どうにも仕方なくなった。可なり間を置いてから、漸く云ってのけた。「一寸お礼だけ申しときたいと思ったのです。」
 額に汗が出て来た。横田からじっと見られてるのを感じた。そして更に狼狽してきた。横田は黙っていた。
「つまらないことを気に懸けないがいい。」と暫くして横田は云った。
 周平は何とか云って、その場を、否自分の気持を、とりつくろいたかった。然し言葉が出なかった。
 そこへ、村田がやって来た。
「今日は余り人が来ませんね。」と村田は坐りかけて云った。
「ああ。」と横田は気の無い返辞をした。
 周平はじっとしてるのが苦しくなった。それかって、すぐに座を立つのも猶更変だった。横田と村田とが新劇壇のことを話し始めたのを、彼は側で黙って聞き流しながら、ぼんやり室の中を見廻していた。一間の書棚とその横の本箱とにぎっしりつまってる書物を、見るともなく眺めていると、一種の威圧を受けた。それが更に先刻の狼狽の上につみ重なってきた。しまいには、淡く自棄《やけ》の気持にまでなった。
 それにしても、あの事を横田が知らないらしいのは不思議だった。たとい保子の心から出たことだとしても、横田には一応相談があってる筈だった。平素彼等夫婦の深い親和を見馴れている周平には、どうも腑に落ちなかった。そして、自分がへまなことを云い出したのではないかという、疑懼の念が起った。
 彼は捨鉢と不安との気持に囚えられた。夕食の御馳走になっていけと勧められるのを、むりに断って辞し去った。村田も一緒に立ち上った。玄関へ保子が送ってきた。周平はその顔をちらと見たが、いつもの通りこだわりのない表情だった。

     五

 周平は村田と肩を並べて、暮れかけた街路を歩き出した。
 風が可なり強くなっていた。南の方からむくむくと起ってきた黒雲が、空の半ばを蔽っていた。夕暮の色と雲の影とが一つになって、不気味な薄闇を地上に漂わしていた。二人は肩をすぼめながら歩いた。
 周平は変に気懸りになってきた。保子が好意を以て内密で取計らってくれたことを、横田の前にさらけ出したのではあるまいか、というような気がした。もしそうだとすれば、保子に対して非常に済まない訳だった。その上、悪い結果になりそうだった。彼はも一度、前からのことを頭に浮べてみた。保子の態度を考えてみても、また横田の態度を考えてみても、二人で相談の上なされたことだったかどうか、全く見当がつかなかった。
 彼は推察に迷った。そして、村田の意見を聞いてみようかと思った。村田は長い間横田の家《うち》と懇意にしていたし、初め周平を横田の家に連れていったのも彼だった。此度のことを話しても差支えなさそうだった。このまま自分一人で気まずい思いをしているよりも、彼の意見を聞いた方が、何かの場合――そんなことはあるまいけれど、もしあるとすればその場合――のためになりそうだった。
 村田は、風に吹飛されそうな帽子を気にしながら、黙々と歩いていた。周平はその方を横目で窺いながら、思い切って云ってみた。
「おい、君の意見を一寸聞きたいことがあるんだが。」
「何だ?」
 村田は足をゆるめて、周平の方をふり向いた。
「実は一人で考えあぐんでることなんだが、内密にしてくれなくちゃ困るよ。」
「ああ大丈夫。……悪い女にでも引っかかったというのかい。」
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