もはやまっしぐらに進むの外はないと思った。村田からは、万事うまく纒ったとの通知があった。
 所が、火曜の朝、遅くまで床の中にはいっていると、一封の書留郵便が来た。保子からだった。周平は胸の動悸を禁じ得なかった。震える手先で封を切ると、最初に五十円の為替がはいっていた。彼は惘然と眼を見張った。それから、一気に手紙を読み下していった。

[#ここから1字下げ]
 お手紙を拝見しました。こういうことになろうとは夢にも思いませんでしたが、今はもう仕方もないことと諦めましょう。
 初めお手紙を見た時、私は大して気にもかけませんでした。噂は噂だとしておけばよい、そう思って平気でいました。けれど、読み返すうちに心配になってきました。怒ってるのか泣いてるのか分らないようなあなたの調子ですもの。私はあなたをもっとしっかりした人だと信じておりました。そして、いろいろ考えていると、このまま黙っては居られない気がしました。
 私はあなたの手紙を横田に見せました。それから、これまでのことを、お約束でしたけれど吉川さんの日記のことも、すっかり話しました。横田は私達を信じてくれました。そしてただこう申しました、井上が独身でいる上にお前に子供がないのがいけないんだと。それがどんな気持を私に与えたかは御想像下さい。僕も淋しい、と横田は申しております。
 あなたの心はあの時から私に分っていました。けれど私の立場としては、外に方法もなかったのです。その上、吉川さんのこともありました。私はあなたが、吉川さんと同じようなことになりはしないかと恐れたのです。それほど、吉川さんのことは深く私の心に刻み込まれていました。あなたや隆吉のことで、それがなお変な風に私の心を悩ましてきました。私はどんなにか苦しんだか分りません。けれど、私は固く信じておりました。あなたと隆吉と三人で清く親しくしてゆくことで、凡てよくなるだろうと。私は間違っていましたでしょうか?
 けれど、もう何もかも駄目になりました。ただ、あなたはしっかりしていって下さい。こういうことを申すと変ですけれど、お清とかいう女のことも御注意なさい。私を信じて下さいとあなたが云われた通りに、私はあなたを信じております。お目にかかっていろいろ申したいこともございますが、今はやはりお逢いしない方が宜しいように思われます。
 噂を立てた本人も分っているとのお言葉ですけれど、そういう噂は一人の人から出たことではありますまい。それに対する手段などということは、よほど注意しないと、とんだことになりはしませんでしょうか。横田もそれを心配しております。
 私達のことは気にかけないで下さい。今はもうすっかり落着いております。噂を噂だとして聞き流すことが出来るほどになっております。自分さえしっかりして居れば、どんな噂でも平気なものです。噂の方から消えてなくなるでしょう。噂に巻き込まれるのは、自分自身がしっかりしていない証拠だと思われます。此度のは余りひどい噂ですけれど、それでも私でさえ平気でおります。あなたが噂の上に出て、自分自身を取失わないようになされることを、祈っております。
 今日は月曜日です。私はあなたに逢ってる気で、この手紙を書いています。隆吉へは、あなたが暫く旅をなさるのだと申して置きました。どんなに淋しがってるかはお分りでしょう。私はこれから、隆吉を猶更愛してゆきましょう。凡てのことがよくなったら、やはり一週に一回位は、隆吉をあなたの下宿へ伺わせるか、或はあなたから来て頂いてもよいと考えております。
 実はこの年末に、あなたのお正月着として、銘仙の羽織と着物とを差上げるつもりでいました。けれど、今の所そうしない方が宜しいようですから、そのために取って置いたのを為替にして入れて置きました。気を悪くしないで受取って頂けることと存じます。
 横田が、あなたに逢っていろいろ話したいこともあるが、今暫くはやはりこのままでいたいと、そう申しております。それから、村田さんのお話ですが、水曜の晩に忘年会をするから横田へも是非出てくれとのことでした。出席すると答えておいたから、あなたからその晩、急な用で欠席する由を皆さんへ伝えてほしいとのことです。
 余り長くなりますからこれで筆をとめます。何事もやがてよくなりますでしょう。心配なさらないで、あなた自身をしっかり守っていって下さい。御自重を切に切に祈っております。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]保子
  井上周平様
[#ここから2字下げ]
追白――この手紙は横田にも見せました。……私はあなたをお訪ねしたく思っていますが、それも止します。……当分のうちお互に手紙も差控えましょう。……あなたが私を信じて下さるように、私はあなたを信じております。お互に正しい途を進みましょう。
[#ここで字下げ終わり]

 周平は夢中に読んでしまってから、暫く惘然とした。いつもの保子と違って、いやに丁寧な調子だった。けれどやがて、其処に真剣なものが感ぜられてきた。彼ははっと我に返ったようになって、また手紙を読み返した。手紙の一句々々が胸をしめつけてきた。
 それは、歔欷を通り越した一種の幻惑に似た気持だった。黒目の大きな澄みきった眼付が、じっとこちらを見つめていた。彼は如何に深く保子を恋していたかを知った。また、その保子が如何に自分から遠く離れてしまったかを知った。そして、其処で頭の働きが止って動かなくなった。
 彼はぼんやり起き上った。機械的に食事をした。それから外に出た。世界が異ったような気がした。黄色い光りが一面に空から落ちていた。この上もなく静かだった。
 彼は日向《ひなた》を選んで、長い間ぼんやり歩き廻った。いくら行っても、日の光りが十分でないように思えた。ふと気が付くと、いつしか保子の家の前に出ていた。横田禎輔という檜板の表札《ひょうさつ》が彼の眼を惹きつけた。彼はそれを初めて見るかのようにじっと眺めた。
 と突然、彼は息を凝した。女中が腕に何か抱えて二階の縁側に出て来た。彼はつと足を返した。高く動悸してる胸を押し鎮めていると、頭の中に罩めていた靄が消えて、過去の全景が遠くまで見渡された。凡てが空《むな》しかった。空しい中にただ一つ、吉川の黒い影がつっ立っていた。彼は幽鬼に出逢ったような慴えを感じた。それから脱することが、やがて凡てから脱することのように感ぜられた。彼はきっと唇をかみしめて、何物にとも分らない漠然とした反抗の気勢に、心の底迄|身内《みうち》を戦かせた。
 せめて隆吉に一目逢いたいという気が起りかけるのを、彼は自ら押し潰した。そして日当りのいい方向へと、当もなく歩き続けた。眼には熱い涙が一杯|溜《たま》っていた。

     四十五

 水曜の晩、周平は八時半頃蓬莱亭へ行った。もっと時間を後らして、皆が酔ってしまった頃行きたかったが、待ってるのが堪えられなくなった。
 彼は二三度その前を往き来して、それから下腹に力を籠めながら、突進するような気で中にはいっていった。階下の室には数人の見知らぬ客が居た。彼は真直に帳場のお主婦《かみ》さんの方へ行って、今迄の借りを全部払った。それからゆっくり階段を上っていった。二階に行くと、広間の方に居た一人の女中がやって来て、いきなり隣室の扉を押し開いた。
「井上さんがいらしたわよ。」
 彼は開かれた扉からつと身を入れた。真白な明るい室だった。こちらを振り向いた皆の顔が、一時に彼の眼の中へ飛び込んできた。彼は横を向いて帽子をかけながら云った。
「遅くなって失敬。」
「やあ来た来た。」と橋本が大きな声を立てた。「も少しで迎えにやるつもりだったぜ。所がお清ちゃんが、屹度君は来ると云い張るんだろう。だから、迎えにやらないでも来るか来ないかという賭《かけ》をしたんだが、つまらないことで損をしちゃった。然し負けてよかった。……まああたれよ。」
 周平は空《あ》けて貰った煖爐の側の席について、ぼんやりあたりを見廻した。金口の煙草をくわえて澄してる竹内の顔が見えた。周平は眼を外らしながら突然云った。
「横田さんからことづかって来たんだが、今晩急な用事で来られないから、皆に宜しく云ってくれとのことだった。」
「君逢ったのか。」と村田が尋ねてきた。
「ああ、昨日《きのう》一寸。」
 村田は変な瞬きをした。周平にはそれが一寸痛快な気がした。心が落付いてきた。
「これだけの人数で十分よ。……井上さん、いらっしゃい。」
 周平は振り向いた。卓子の向うの端からお清の顔が覗き出していた。
「私も忘年会の仲間に入れて貰うのよ。いいでしょう。」
 眼付に一寸険を帯びて、口元に軽い微笑を浮べていた。それを周平は正面《まとも》にじっと見返した。
「君の承認を得なけりゃ気が済まないんだそうだ。」と竹内が云った。
 冗談の調子ではあったが、それがぐっと周平の胸にきた。彼は唇を震わしながら咄嗟に言葉が出なかった。
「はいりたい者は皆入れるさ。」と村田が引取った。「兎に角、忘年会の名に恥じないように、一年中のことを忘れちまうまで飲めばいいんだ。」
「僕は一年中のことを生かしきるまで飲みたいね。忘れるより生かす方が……。」
「分ったよ。」と村田はそれを遮った。「もう沢山だ、君の理屈は。」
 先刻からの話の続きらしかった。然し周平は黙ってることが出来なかった。突然云ってのけた。
「おい竹内、下らない噂を立てるのは止すがいい。卑劣じゃないか。」
 云ってしまってから周平は、竹内を見つめてる自分の眼付が熱してるのを感じた。がその瞬間に、村田が口を開いた。
「止せよ、つまらない。屁理屈や喧嘩は今晩一切封じちまうんだ。したけりゃ酔払った後にしろよ。」
「然し井上は僕に……。」と竹内は云いかけた。
「後にしろ。酔っ払ってからのことだ。」
「賛成!」と大声に叫んだ者があった。
 周平は黙って杯を取った。皆が一時に饒舌《しゃべ》り出した。とってつけたような饒舌り方だったが、それがやがて本物になっていった。全部で八人だった。皆可なりもう酔いかけていた。
 食卓の真中に二三本洋酒の瓶が立っていて、食い荒した料理の皿が周囲に散らばっていた。お清はそれを持ち去ろうともせず、なお新らしい料理や日本酒を運んできた。可なり贅沢でまた乱雑だった。
「なるほど、この方が賑かでいいや。」と誰かが云った。
「見給え、幹事有能だろう。」と村田が応じた。
 話は、食物のことから、菜食主義のことになり、一転して享楽主義の論となり、天才の本質は純粋享楽だというようなことから、脳力と性慾との問題に及び、文学や美術に現われてる女のモデルと作者との関係から、やがて猥褻談に落ち、それからまた四方に枝を伸していった。それを中心として、一つの問題に長く止ってる者もあれば、正月の計画を隣りの者に囁いてる者もあり、皆の話を聞き流しながら口笛を吹いてる者もあった。竹内は噂か本当か分らない面白い実例をしきりに持ち出していた。何かしら饒舌らずにはいられないらしい調子だった。それへお清が、或は頓馬な或は適切な茶々を入れていった。
 周平は一人黙々として、時々強い洋酒の方へ手を出しながら、煖爐の火を見つめていた。どうしても皆と調子を合せられなかった。それがまた反撥的に心に返ってきた。しまいにぷいと立ち上って、向うの長椅子に半身を横たえた。
 然し誰も注意を向けなかった。話がはずんでいた。睾丸移植の大手術が行われて、睾丸を失ってる男が他人のを片方貰ったのだが、それでもし子供が出来たら、その子は他人のか自分のかという問題だった。
 周平はそれらの話をぼんやり耳にしながら、自分一人の考えを追求していった。いつまでも愚図ついてるのが堪えられなかった。彼は自分と皆とを距つる深い溝渠を感じた。何事にも興味と好奇心とを覚えて凡てを摂取して飽かない青年の気概から、いつしか遠く離れてしまって、暗澹たる途にさ迷ってる自分自身の姿が、まざまざと見えてきた。保子のこと、お清のこと、隆吉のこと、幽鬼のような吉川のこと、それらが一団となって自分の精神生活を塞いでるのが、貧し
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