慌てて室の中を見廻した。大きな鏡台と華かな座布団と、それから衣桁にかかってる薄汚れのした女の着物とが、まざまざと頭に映った。訳の分らない涙が出て来た。涙の奥から保子の面影が浮んできた。
お清は彼の様子に眼を止めて、暫くつっ立っていたが、俄に役の肩先へ屈み込んできた。
「あなたはやはりその奥さんのことを、片想いに想ってるのね。」
周平は涙の中で首肯《うなず》いた。それから眼を見据えた。暫く時がたった。息が止ったような静けさだった。と突然お清は、彼の肩に置いてる手をぴくりと震わした。
「あなたがそうなら、私だって真面目よ。意地も義理も知ってるわよ。……いいから、竹内さんを殴っておしまいなさいな。私も一つ位殴ってやるわ。構やしない。二人で殴っちゃいましょう。」
周平は頭の中が急にはっきりしてくるのを覚えた。お清の手を取って、それを強く握りしめながら云った。
「君の前で殴ってみせるよ。」
そして、ごろりと仰向に寝そべって眼を閉じた。
お清は暫くつっ立っていた。それから手荒く布団を敷いて、火燵の火を入換えた。周平は着物のままそれにもぐり込んだ。
「寒かなくって?」と彼女は云った。
「大丈夫。」と彼は眼を閉じたまま答えた。
お清は彼と火燵の反対の側に、座布団を敷いて、帯だけ解いて夜着にくるまって寝た。
四十二
周平は苦しい一夜を明した。一夜といっても、それは二三時間にすぎなかったろう。頭のしんが冴え返りながら、意識の表面だけでうとうとしてると、遠くに、牛乳車の音や汽笛の響が聞えてきた。彼は驚いて眼を開いた。肩のあたりが冷々としていて、火燵が余り熱っぽかった。何度も足を伸ばしたり引込めたりしてるうちに、またうとうととした。暫くして、彼ははっと眼を覚して、思わず上半身を起した。向うにお清が眠っていた。電灯の光が妙に薄暗かった。
彼はそっと起き上って、窓を開いてみた。外は仄白く明けていた。切れぎれになった灰色の雲が、幾重にも重なって空低く垂れ籠めていた。軽い風があるとみえて、隣家との間に伸び出てる欅《けやき》の枝が、二三枚の枯葉をつけたまま、ゆらゆらと動いていた。其他はただ一面に、靄もない茫とした薄ら明るみの中に、夜明けの一時を眠っていた。
周平は窓縁に両肱でもたれかかりながら、それらの景色にぼんやり眼をやった。頼りない佗しさが、しみじみと身に迫ってきた。もはや何物もない空《むな》しい気持だった。然し、その中に心を浸していると、その空しさが一種の力強いものに感ぜられてきた。身を投げ出した後に、自ら途が開けて居た。彼は昨夜からのことを思い出した。お清と綺麗な一夜を明かしたことが、今は奇蹟でなくて、如何にも自然らしく思われた。心の底を明し合ってみれば、もはや慾望も何も無くなっていた。相許した晴々しさがあるばかりだった。彼はその空しい気持で、凡てに別れを告げ得る気がした。
低い曇り空の下に、薄明りの中に、何処となく夜明けの擾音が伝わってきた。雀の鳴く声が聞えた。周平は瞑想から醒めて、急に寒さを覚えながら窓を離れた。そして火燵の中に屈み込んだ。
打ち開いた窓から射し込む明りと消え残ってる電灯の光りとが、一つに融け合って、影のないだだ白い明るみを室の中に湛えた。夜とも昼ともつかない懶《ものう》い明るみだった。その中で、お清はすやすや眠っていた。夜着から肩を半分出して、横向きに枕の上につっ伏していた。白粉汚れのした紫の襟から、頸筋の荒い肌が覗いていた。陰気な曇りを帯びた額に少し脂を浮べ、頬の所々に濃く白粉を寄せて、ぐったり疲れきってる様子だった。小さな口を心もち開いて、口からとも鼻からともなく、軽い細い息をしていた。
「おい、お清ちゃん。」と周平は呼んでみた。
囁くような低い声だったが、お清はそれと同時に、静かに眼を見開いた。……周平は息をつめた。彼女の眼覚めが余りに速かで静かだったばかりでなく、その眼が、眠ったままのその眼が、余りに大きくて安らかで美しかった。彼女はぼんやり彼の顔へ瞳《ひとみ》を据えながら、口を開いて何やら言いかけた。瞬間に、彼は我を忘れて身を乗り出した。その眼へ、次にその口へ、唇を押しあてた。そして突然、自ら自分を※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ取るようにして立ち上った。
「僕はもう帰るよ。」
お清は静かに上半身を起して、後手に髪を撫で上げた。
「帰っていいだろう。」と周平は足先でぐるりと廻りながら云った。
「ええ。だけど……。」彼女は長く間を置いて、それから俄に彼の方を仰ぎ見て云い添えた。「あなたはもう私と逢わないつもりでしょう。別れ際にお茶でも飲んでいらっしゃいよ。」
終りを冗談《じょうだん》の調子で云ってのけて、彼女は起き上った。周平はまた炬燵に坐った。火鉢にかかってた錻力の大きな薬鑵の湯で、彼女は無雑作にお茶をいれた。そして二人はぼんやり顔を見合った。もう何にも云うことも考えることもないような、落着いた空しい気持だった。
四十三
夜が明けたばかりの寂しい街路を、周平は電車にも乗らず、何物にも眼を止めず、怪しく乱れながら落着いてる気持を懐《いだ》いて、真直に下宿へ帰った。
お清とのその朝のことが、頭の底にこびりついて離れなかった。それかといって、何物もはっきり掴めるものはなかった。鼻に沁み込んだ匂いに似ていた。考えることが出来なくて、ただ嗅ぎ取られるばかりだった。そしてそれが一種の象徴となって心に映った。もはや其処には、お清も保子もなかった。惑わしい一の女性があるのみだった。お清と保子と、何れへ心の眼をやっても、それは単なるお清でも保子でもなかった。二つのものが一つの面影のうちに融け合っていた。
その面影に向って、別れを告げる途しかもはや残っていないことを、彼は感じた。否既に、半ば別れてしまったのだった。二人が一つになったことが、何れとも選び難くなったことが、それを決定してくれた。息苦しい雰囲気から脱した後の、何物もない広々とした空間が、前方に見えてきた。
彼はすぐにペンを執って、保子へ手紙を書きかけた。
然し、一句毎につかえていった。細かく自分の気持を書くつもりだったが、その気持にまとまりがつかなかった。心の底では、保子へ書いてるのかお清へ書いてるのか、けじめがつかなかった。
彼は書きかけの紙を幾度も裂き捨てた。然し書かずには居られなかった。何かに駆り立てられる心地がした。昏迷の気持をじっと押えつけ、前に浮びくる幻の面影へ向って、がむしゃらに簡単な文句を投げつけた。
[#ここから1字下げ]
先達て、年末から正月へかけてお手伝いすることを約束しましたが、それが出来なくなりました。毎週月曜にもお伺い出来なくなりました。もうお家へ伺うことが出来ないのです。
堪らない噂が広まっています。あなたと、お清という或るカフェーの女中とに、私が肉体的関係を同時に結んでるというのです。噂は全く噂です。けれど……。
許して下さい。私はどうしていいか分らないのです。許して下さい。私はあなたに恋していました。お清にも恋していたかも知れません。
今はもう何でもありません。自分自身が呪わしいだけです。
あなたと先生との恩義をつくづく感じています。噂を立てた本人は分っています。私は自分の信ずる手段を取ります。このままでは済ませない気がします。
私は新らしい途を踏み出すつもりです。自信を持っています。
何もかも許して下さい。御恩義には屹度報いる時があることを期しています。今はただ感謝きりありません。
細かく書くつもりですが、何にも書けません。私の今後のことは、友人の村田や其他から御耳に伝わることと存じます。暫くお別れすることが……今はもうつらくは思われません。
許して下さい。これより外に途がないのです。私は信じています。
[#ここで字下げ終わり]
周平は書き続けられなくなって、それで止した。読み返しもしないで封をしてしまうと、堪え難い気持になった。
最後に只一度、保子へ逢いたかった。然しその場面を想像すると、自分自身が恐ろしくなった。どんなことになるか分らない気がした。
彼は凡てを踏み蹂るような心地で、女中を呼んで手紙を出さした。急に寒気《さむけ》がしてきた。惨めな室の中を見廻してから、床を敷いて寝た。身動きも出来ないほどの疲労を全身に覚えた。
暫く眼を開いたり閉じたりしているうちに、彼はいつしか眠った。午《ひる》の食事を女中が運んできたのを、夢心地で怒鳴りつけるように郤けて、又白けた眠りに陥った。
三時頃、村田が訪ねて来たため、彼はその眠りから本当に覚された。頭が妙にぼんやりしていた。村田を通さしておいて、床の中から起き上らなかった。
「このままで失敬するよ。」と彼は云った。
「ああ。だがどうしたんだい。」
「少し寒気《さむけ》がして、やたらに眠いんだ。」
馬鹿々々しいことを云ってるような気がして、彼はじっと天井を仰いだ。
村田はその枕頭《まくらもと》に坐って、女中が持って来た火鉢の火を弄《いじ》っていたが、突然云い出した。
「君怒ってやすまいね。……昨晩は僕が悪かったよ。然し君の云い方もいけなかったんだ。噂が嘘だということは分っていたが、君の調子が調子だったものだから……。」
周平は変な気がして村田の顔を眺めた。彼にとっては、それがずっと以前のことのようだった。昨晩村田と別れてから、長い時日がたってるように思われた。実際そんなことはもう脱却してしまっていた。
「何とも思ってやしないよ。」と彼は云った。
「そんならいいが……。然しこれからどうするつもりだい。」
「何を?」
「ああいう噂が立ってるので……。」
「どうもしないさ。噂ばかりだから構やしない。ただ、もうお清に逢うことも、横田さんの家《うち》に行くことも、きっぱり止そうと思ってる。つまらないからね」
「うむ。」
村田はそう答えたまま、火鉢の火に眼を落して、暫く考え込んだ。それから急に顔を挙げた。
「それもいいだろう。なまじっか噂に反抗し出すと、横田さん二人に迷惑をかけることになるかも知れない。……それに、今後の君の生活位はどうにでもなる。僕がいくらも仕事を探し出してやるよ。」
然し、周平はそれを耳に止めなかった。彼は咄嗟に或る計画を思いついていた。竹内を殴るに最もいい名案らしく思われた。彼は強いて何気ない調子を装って云った。
「君、忘年会をやろうじゃないか。」
「え?」
「僕は今年《ことし》一年中のことを葬ってしまいたいんだ。噂をも何もかも葬ってしまいたいんだ。皆で忘年会をやって大に飲もう。なるべく早い方がいいね。最後の思い出に、蓬莱亭の二階でやろう。」
村田は眼を円く見開いていたが、暫くして、急に顔を輝かしてきた。
「それはいい。早速やろう。今日は金曜だから……来週の水曜あたりはどうだい。横田さんの家へ集るのを、そっくり持ち込むんだ。横田さんも引張り出そう。お清と大に仲のいい所を見せて、奥さんとのことを間接に打消すんだね。名案だ。そして何もかも葬っちまうんだ。」
周平は一寸躊躇した。村田を欺くことが、また横田さんを呼ぶことが、何となく気に懸った。然し村田は、何等の疑念も※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んでいないらしく、極めて乗気になっていた。一人で凡てをまとめると云い出した。周平も今更躊躇してはいられなかった。何構うものかという気になった。村田と一緒にその会のことを定《き》めた。蓬莱亭の二階の狭い方の室を占領して、食事をぬきに、七時頃から遅くまで飲んで騒ぐことにした。気の置けない会にするため、水曜日の連中とカフェーの連中とからなるべく共通の者を中心にして、十一二名の人数になった。
「竹内も呼んでやろうよ。」と周平は軽く云った。
「勿論さ。」と村田は答えた。
周平は知らず識らず身を乗り出していたのを、また布団の中にもぐり込んだ。
四十四
周平は水曜日の会を待った。多少の懸念がないでもなかったが、
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