い物質生活と反映し合っていた。それをつきぬけて晴々とした所へ出なければ、もはや息がつけない気がした。余儀ない破目から竹内を殴ることも、今は自分の生活を転回させるに必要な槓杆のように感ぜられた。単なる復讐心や卑怯な女々しい感情からではなく、公怨と無条件に腕力を肯定出来る気がした。思いつめてると頭がくらくらとした。知らず識らず保子の手紙が胸に浮んで涙が湧いてくるのを、彼は他人のような気持でぼんやり而も力無く見戍った。
「どうしたのよ、井上さん、しっかりなさいな」
その声に喫驚《びっくり》して眼を挙げると、お清がすぐ側に坐って覗き込んでいた。酒に熱《ほて》った頬と冷たく曇ってる額との間から、うち許しながら敵意ある露《あらわ》な眼が輝いていた。
「水を一杯くれよ。」と周平は云った。
彼は身を起した。コップに水をついできたお清を引寄せて、膝の上に坐らした。そのずっしりとした重みを感じながら、一息にコップを飲み干した。
「井上、」と誰かが呼んだ、「怪しげな所を見せないで、まあこっちへ来いよ。」
周平はお清を押しのけ、心を決して煖爐の方へ行った。
「水は早いぜ。も少し飲め」
竹内が立ち上って杯をさしつけてきた。
周平はその顔をじっと見返した。
「飲むとも。」そして手のコップを差出した。「これでやろう。君も受けるんだぞ。」
「よし。」と竹内は答えた。
周平はコップになみなみとつがれたのを、一気に半分ばかり干した。下を向いて煖爐から煙草に火を移した。今だ! と考えた。頭がはっきりしていた。彼はコップを卓子の上に置いて、竹内の金縁眼鏡が光ってる辺へ見当を定めながら、吸いさしの煙草をぱっと投げつけた。火の粉が飛び散った。竹内があっとひるむ所を、足を払うと同時に殴りつけた。力任せの拳固を二つ喰わせるまに、竹内はばったり倒れた。
一瞬間のことだった。周平は底の知れない静寂を感じた。皆が惘然とつっ立つ間に、つと身を飜して、帽子を取りながら室を出た。後をも見ずに力強い大股で、階段を下り、階下の室を通りぬけ、表へ出た。後ろから誰かの呼び声がした。十歩ばかりして振り返ると、四五人の人影が蓬莱亭の入口に立っていた。周平はかっと唾をしてまた歩き出した。
月の光りが冴えていた。晴々とした大空が頭の上にあった。新しい運命がぎーいと音を立てて開けてくるのを、彼はじかに胸に感ずる心地がした。
底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「国民新聞」
1921(大正10)年8月4日〜11月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月13日作成
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