なっていた。そのことが気持にこびりついてきた。
 隅っこの小さな卓子を選んだ。客は込んでいなかった。二人の様子を見て、女中も遠慮してか寄って来なかった。
 熱い珈琲を飲んでるうちに、周平は突然不安を覚えてきた。何か話があるのを云い出しかねてるような村田の様子だった。それが可なり重大なことらしかった。予め覚悟を強いられる気がした。彼はぐっと腹を据えて、がちゃりと珈琲皿を置いた。その音に室の隅から彼の方へ転じてきた村田の眼へ、何だい? と眼付で尋ねかけた。
 村田は初めて我に返ったかのように、珈琲を一口飲み、煙草に火をつけた。が、言葉は直截だった。
「君は変な噂があるのを知ってるか。」
「誰の?」
「君自身のさ。」
 周平は冷笑的に唇を歪めた。お清のことだなと思った。村田までそんなことを気にしてるのが可笑しかった。
「知ってるよ。」と彼は云った。
「それで何とも思わないのか。」
「別に何とも思わないね。」
「じゃあ、あの噂は本当なのか。」
「さあ、本当のような嘘のような……。だが余り下らないことじゃないか。」
 周平が落着いてゆくに反して、村田は妙に苛立っていった。いつもの好奇心からではなく、真剣な光りで眼を輝かせながら、冷たく引緊った顔をして疊みかけてきた。
「本当なのか。」
「本当かも知れないね。」
 村田は深く息をしたが、急に激した調子になった。
「それで君は済むと思うのか。……僕はこれまで君の弁護をし続けてきた。然し君自身が余りしゃあしゃあとしてるから、今晩は思い切って君に云ってやるつもりになったんだ。平素は僕も随分でたらめだが、君みたいな不道徳なことはしない。少しは感恩ということを知るがいい。自分の愛……愛とも僕は云わさない、慾望なんだ……その慾望を満足させるために、恩になってる人達の生活に泥を塗って、それでいいと思うのか。」
 周平は暫し呆気《あっけ》にとられた。が俄にぎくりとした。保子のことが頭の中に閃いた。それをじっと押えつけて、静かに云った。
「何のことだか僕には分らない。具体的にはっきり云えよ。」
「白ばっくれるなら云ってきかしてやる。」
 周平は眼を据えて次の言葉を待った。
「僕はその噂を聞いた時、初め自分の耳が信じられなかった。余りにひどい破廉恥な行いだ。」そして村田は声を低めたが、調子は一層鋭くなった。「君がお清と或る種の親しい関係に在ることは、僕もよく知っている。それから、横田さんの奥さんとの関係も、僕は或る点まで理解してるつもりだ。然し、それが両方共、肉体的関係に、或はそれに近いものになってるとは、夢にも思わなかった。」
 周平は危く叫び声を立てようとした。がそれを強いて抑えつけた。村田は云い続けていた。
「僕は君を信じていたんだ。お清とのことは単なる一時の遊戯に過ぎないし、奥さんとのことは単なる親しみに過ぎないと、あくまで信じていた。それが……噂の通りだと君自身で肯定するなら、僕はもう何にも云わない。お清とのことだけならまだいい。然し奥さんとのことは……それも純粋な愛ならまだ許せる点もあるが、一方にお清という者がありながら、而も非常な恩を受けてる奥さんと……僕は考えても恐ろしい気がする。よくも君は図々しくそんなことが出来たもんだ。自分で恐ろしいとは思わないのか。」
 然し周平はもう、村田の言葉に耳を貸してはいなかった。思いもかけない保子との噂に心が顛倒して、それを抑えれば抑えるほど、呪わしい憤りが湧き上ってきた。保子に道ならぬ恋をしてるという意識が、更にそれを煽り立てた。時々耳に響く村田の鋭い言葉が、その気持に釘を打ち込んできた。
 彼は敵意ある眼で村田の顔を睥みつけた。弁解するよりも突っかかっていった。
「卑しい想像は止すがいい。魂の腐った奴のすることだ。」
「何が卑しい想像だ!」と村田は叫んだ。彼もいつになく奮激していた、「自分のことを考えてみろ。」
 その言葉が周平の胸にぐっと来た。彼は立ち上った。
「君こそ自分のことを考えてみろ。下らない噂の上に卑しい想像を逞うするのが、自分で恥しくないのか。」
 村田は熱っぽい眼付で見上げながら、一寸唇を震わしたが、それを周平は咄嗟に、上から押被《おっかぶ》せた。
「勝手に僕のことをふれ歩くがいい。よかったら横田さんに告口でも……。」
 云いかけて彼はぷつりと言葉を切った。恐ろしい閃きが頭を過《よ》ぎった。村田の熱っぽい鋭い眼付が俄に不安になった。
「下らない!」
 捨鉢な気持で云い捨てて、彼はぷいと立ち去った。
「君は自分で肯定して、それを……。」
 憤りと叱責との調子の言葉を、彼は後ろに聞き捨てながら、振り返りもしないで出て行った。
 が、扉の所で彼は一寸足を止めた。何だか変だった。然し、村田が追っかけてくる気配《けはい》はなかった。しいんとしていた。誰とも知れない無数の眼から見られてる気がした。彼は逃げるように飛び出した。
 寒い空気がひしひしと四方から迫ってきた。彼は肩をすぼめて当もなく歩きだした。頭の中の混乱がそのまま静まり返った。種々のことがぽつりぽつりと分ってきた。電柱に突き当りかけて身を交した時、眼に涙が溢れてるのに気づいた。気づくと同時に、はらはらと頬に流れた。然し彼はそれを拭おうともせずに、なお歩き続けた。立ち止るのが恐ろしかった。

     四十

 周平は、脱することの出来ない罠に囚えられてる自分の姿を、まざまざと見るような気がした。噂が単にお清とのことだけなら、笑って済すことが出来た。然し、保子とのことは堪えられなかった。保子とお清と二人一緒のことは、更に堪えられなかった。全く無根の噂ならば、まだ平然として居れるわけだった。けれどもそれは、たとい事実としては無根であっても、彼の心の中のこととしては、無下《むげ》に否定出来ないものがあった。
 彼はも一度、自分の心の中を覗き込んだ。――お清の方は、初め一種の好奇心を以て近づいていったのだったが、疑惑が消えると共に、もはや其処には愛慾しか残っていなかった。自分の踏み出し方によって、どうにでもなりそうだった。――保子の方は、寂寞たる苦しい生活のうちに、自分が知らず識らず縋りついていった唯一の慰安だった。涙ぐましいしみじみとした感情で自分を包んでくれる、大きな欽慕の対象だった。強い愛の焔が時々閃いたけれど、それは何処までも至純だった。――が、その二つが一つに綯われて、深い渦巻きを拵えてしまった。どうしたらいいか、自分でも分らなくなっていたのだ。暗澹たる苦闘を続けていたのだ。
 それを……。
 彼は云い知れぬ苛立ちを感じた。復讐とも反抗ともつかない感情が、心の底から湧き上ってきた。このままでは済まされなかった。何物かにぶつかっていって、思うさま殴りつけ蹴飛し踏みにじりたかった。
 彼は長い間、何処を通ってるかも自ら知らないで歩き続けた。寒さが、ひしひしと迫ってくるのが、なお彼の気持を悲痛な色に染めていった。
 ふと気が付くと、彼は驚いて足を止めた。見馴れた建物がすぐ前に在った。塔のような三階が、附近の軒並から高く夜の空に聳えていた。二階の窓には褐色の窓掛が引かれて、灯火は消えていた。然し、内側に白い布を垂れた入口の扉には、ぴたりと閉ってる隙間から、明るい光りがかすかに洩れていた。
 それらを一目見やって、彼は足早に通りすぎた。胸が怪しく震えていた。何のために蓬莱亭の前までやって来たのか、自分でも分らなかった。
 然し間もなく、知らず識らず胸に企《たくら》んでいたことが、はっきり頭に上ってきた。彼は竹内を殴りつけるつもりだった。
 噂は竹内から出たことに違いなかった。お清とのことや其他のことを考え合わせると、その推定は殆んど確実とも云ってよかった。そしてもはや、竹内を殴りつけることより外には、他に途がないように感じられた。噂が親友たる村田の耳にまで達してる以上は、お清へは勿論、横田や保子へも伝わってるかも知れなかった。今伝わっていなくても、やがて伝わるに違いなかった。そしてそれは、彼にとっては致命的なことだった。凡てを汚辱することだった。これまでの内心の苦闘を無にしてしまうことだった。而もその噂は、お清との単なるいきさつの腹愈せとして、竹内が勝手に捏造し流布したものだとすれば、殴りつけてもまだ足りなかった。
 彼はまた足を返して、蓬莱亭の前へ忍び寄った。閉め切られてる扉から耳を澄すと、中はしいんとして、何の物音も話声も聞えなかった。然し火《あか》りが洩れてる所をみると、或はまだ竹内が居るかも知れなかった。
 彼は思案に迷って、二三度その前を往き来した。街路は静まり返って、深い夜が立ち罩めていた。
 いつまで待っていても仕方がなかった。遂に彼は扉の前にじっと佇んだ。暫く耳を傾けた後、指先で軽く押してみた。強い抵抗が感ぜられて、もう締りがしてあるらしかった。それでも、彼はなお内の気配を窺った。奥の方に、何やら物音と笑声とが聞えるようだった。彼は更に耳を澄した。
 その時、隣家との間にある狭い路次から、俄に人の足音が起った。彼は家の内部へばかり注意を向けていたので、それが余りに突然で不意だった。気が付いた時はもう、足早な下駄の音が路次から出て来かかっていた。彼は駭然として扉から身を退いた。そして何気ない風を装いながら、。強いてゆっくり歩き出した。所が、すぐ前は四辻で、明るい光りが射していた。身を隠す物影がなかった。咄嗟に彼は、蓬莱亭と反対の側の軒下の暗がりに佇んで、袂から煙草を探ってマッチをすった。それが却っていけなかった。煙草に火をつけてマッチの棒を投げ捨てる拍子に、一寸後ろを顧みると、すぐ其処に、一人の女が立っていた。薄色の肩掛の胸にコートの両袖を合して、真白な顔をつき出していた。お清だった。
 周平は惘然として、つっ立ったまま動けなかった。数秒……そして彼女は一歩進んできた。
「井上さんじゃないの。」
 落着いた低い声だった。
「こんなに遅く……。」
 聞くように云いかけて、どうしたの? と彼に眼付で尋ねながら、彼女は歩み寄ってきた。彼はその顔をじっと見つめた。すると、彼女はちらと大きな瞬きをして、上目がちに蓬莱亭の方をさし示しながら、軽く彼の袂を捉えて歩き出した。彼は譯が分らないで、黙ってその後に随った。頭の中がもやもやとして、夢をみてるような気持になった。
 お清は薄暗い横町の方へ曲り込んでいった。暫くしてから、ふいに彼の方へ眼を挙げた。
「今時分どうしたのよ。今晩早く帰っておいて……。」
「急に用が出来たんだ。」と周平は云った。
「誰に?」
 周平は暗がりの中に眼を見据えて、何とも答えなかった。
「誰かを待ち合してたんでしょう。」
 周平は黙っていた。
「誰《だあれ》? 仰しゃいよ。」
 甘えたような声の調子だった。周平は急に苛立ってきた。彼女と出逢ったためにぼやけた頭が、また強く働きだしてきた。彼は吐き出すようにして云った。
「竹内を探しに来たんだ。」
「え、竹内さんを!」
「竹内は何時頃帰ったんだい。」
「もうだいぶ前よ。」
「運のいい奴だな。」
「竹内さんがどうしたというの。」
「僕は竹内を殴ってやるんだ。」
「え!」
 お清は足を止めて、喫驚《びっくり》した眼付で彼の顔を眺めた。彼はそれに構わず、ずんずん歩いて行った。
 暫くすると、彼女は足を早めて寄り添ってきた。
「本当に殴るつもりなの?」
「本当さ。」
 と答えたが、周平はふと気懸りになって、彼女の方を顧みた。小さく結んだ口と一杯に見開いた不安げな眼とが、彼に或る信頼の念を与えた。彼はしみじみとした調子で云った。
「僕はもう何もかも駄目になっちゃった。」
「どうして?」
 彼女はコートの下から、そっと彼の袖を捉えてきた。
 其儘二人は暫く黙って歩いた。
「ねえ、どういうこと?」とお清はまた尋ねてきた。
 それがぴったり周平の呼吸と合った。彼は即座に凡てをぶちまけた。
「我慢出来ない噂なんだ。僕が横田さんの奥さんと君とに同時に情交を結んで、それでしゃあしゃあとしてるというんだ。その噂が皆の間に広まってるのを
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