ろうと思った。それが自分を救う唯一の途のように考えられた。そして彼は彼女の言葉を待った。
 然し彼女は、彼が予期した方へは来なかった。暫く黙った後に、俄に苛立った様子になった。自らごまかすかのように忙しく針の手を運びながら、落着きのない角立った声で云った。
「旅をしないんなら、歳暮《くれ》からお正月へかけて少し手伝って頂戴。いろんな用があるのに、横田があの通り懶惰《ものぐさ》だから、私一人で困ってるのよ。」
「ええ、何でもします。」と彼は答えた。
「そう無雑作《むぞうさ》に受合って大丈夫ですか。また急な仕事が出来たなんかって……。」
「いえ、大丈夫です。いつです、どんな用事でも、私で間に合うことなら飛んで来ます。」
「屹度でしょうね?」
 と念を押して、彼女は一寸眼を空間に定めて考え込んだが、それから、また静かな顔付で彼の方を見やった。彼は妙に不安になった。彼女が意識して避けてる事柄がその底にあるのを、彼は漠然と感じた。いつまでも黙って向い合ってるのが苦しかった。
 そしては、隆吉を探しに立っていった。
 周平がやってゆくと、隆吉は左の頬に転い笑靨を寄せながら、目玉をぐるりと動かして、彼の姿を見上げた。周平は黙って其処に坐りかけたが、外光を遮られた狭い室で、つまらない時間を過すよりも、自由に外を歩きたくなった、――いつのまにか彼は、隆吉を外に引張り出す癖がついていた。
「外へ行かない?」
「うん、行こう。」
 周平が半ば下しかけた腰を浮かせてるまに、隆吉はぴょんとはね起きて、すぐに黒い毛糸の帽子を取ってきた。外へ出る時には、たとい和服の時にでも、学校の帽子よりその多少子供子供した而も高慢ちきな毛糸帽を、周平は好きだったのである。隆吉にはそれがよく似合った。
「叔母さん、行ってきますよ、井上さんと。」
「ええ。」
 と答えて、保子がじろりと見上げたのを、周平は慌てて押被《おっかぶ》せるように云った。
「実地教育なんです。」
 周平は保子の眼付を見ないで、その口元の微笑みだけを眼に止めて、先に立って外に出た。
 そして実際彼が隆吉を連れて行くのは、博物館や動物園や植物園や、淋しい神社の境内などへであった。一度美術展覧会へ行ったこともあるが、隆吉が変に執拗な眼付で肖像画をばかり探し求めてるのを見て、周平は不気味な不安を感じた。それから展覧会へはもうはいらなかった。もっと呑気な場所が好ましかった。博物館にはいると、門内の庭園を長い間ぶらついた。動物園では、水にもぐってる河馬が時々水面にのっそり顔を出すのを、何度も待ち受けて佇んだり、昼寝をしてる獅子が身を動かすのを、ベンチに腰掛けて長い間待っていたりした。が殊に、植物園が一番静かでよかった。
 西に傾いた弱々しい日脚の、僅かな暖かみを肩先に惜んで、ゆっくり坂を上ってゆくと、左手に、粛條たる平地が一面に日の光りを受けていた。立ち並んでる桜の古木の、黄ばんだ葉をまばらに散り残してる枝の下に、霜枯れの草原が遠くまで透し見られた。それと照応して、空がしめやかに澄みきっていた。
 隆吉は口笛を吹きながら歩いていたが、突然足をゆるめて云った。
「家《うち》にもこんな庭があるといいなあ。」
「じゃあ叔父さんにねだって拵えて貰うさ。」
「駄目だい。」
「なぜ?」
「なぜって、駄目だい。」
 木の下に歩み寄ると、紫がかった木の葉の影が、点々と淡く落ちていた。
「隆ちゃんは、家《うち》にこんな広い庭があったらどうする。」
 隆吉は一寸眼を見据えた。
「僕ね、石榴《ざくろ》の木を一杯植えるよ。」
 周平が黙ってるのを構わずに、彼はまた云い続けた。
「元の家《うち》にね、大きな石榴の木があったよ。お父さんが大事にしてたんだよ。庭は狭いけど、石榴の木があるからいいって、いつも云ってたよ。」
「だって隆ちゃんは、お父さんが死んだ時はまだ赤ん坊だったろう。どうしてそんなことを覚えてるの?」
 周平からじっと見返されると、隆吉は口を尖らし眼を円く見開いて、自分でも思い惑ったような表情をした。それから黙り込んでしまった。
 が、暫くすると、また口笛を吹いてさっさと歩き出した。
 散歩の人も二三人きり見えなかった。常磐木の横を廻ってゆくと、其処の日向に三脚《さんきゃく》を据えて、向うの灌木や芝地になだれ落ちてる外光を、点々と写し出してる画家があった。立って見てる人も居ないのが、あたりの景色と共に、余りに静かで淋しかった。
 白い小さな蝶が一匹、枯れつくした花壇の方から飛んできた。その後を追うともなくゆっくり追って行くと、後ろに檜葉の茂みを控えた暖かい芝地で、蝶はぱっと高く舞い上った。一線の大きな叢を選んで、周平は腰を下した。ほろろ寒い檜葉の下影から、弱々しい虫の声が聞えてきた。
 周平が夢想に耽ってるまに、隆吉は団栗《どんぐり》を拾って駈けてきた。
「これで中《あて》っこしようか。」
 近くに標的《まと》を定めて投げてみたが、なかなか中らなかった。それでも、隆吉は二三度あてた。
 弾が無くなってつまらなそうな顔をしてる隆吉を、周平はいきなり引寄せて、膝の上に腰掛けさした。痩せた軽い身体だった。隆吉は変にもじもじしていたが、ふいに飛びのいて、周平の背中につかまってきた。周平はそれを負《おぶ》って、のっそり歩きだした。
「僕ね、お父さんにもお母さんにも負《おぶ》さったことがないんだって。」
 そして隆吉は肩の手にぐっと力を入れた。周平が黙ってると、暫くして低い声で云った。
「人の前でお父さんやお母さんのことを云っちゃいけないんだって、本当かしら?」
「誰がそんなことを云ったの。」
「お祖母《ばあ》さんが云ったよ。」
「そう。だが僕にならいくら云ってもいいよ。」
 然し隆吉はもう何とも云わなかった。手と足とで彼の背中に強くしがみついてきた。彼はそれを長く下《おろ》さなかった。急な坂の曲りくねった小径を下りつくして、息が苦しくなった時に、後ろへ廻した手をゆるめた。隆吉はぴょんと飛び下りて、ひょろ長い首で重そうな頭を少し傾《かし》げながら、何気ない様子で池の中を覗き覗き歩いた。
「鯉は何処にいっちゃったんだろう。」
 池の面《おもて》は、長い物影を宿して黝ずんでいた。西に沈んでゆく日の光りが、眼に見えるように感じられた。
「もう帰ろう、遅くなるから。」
 隆吉は返辞もせず首肯《うなず》きもしなかったが、周平と一緒に足を早めた。二人は水禽の檻の前をもすたすた通り過ぎた。
 電気や瓦斯の火がともるに間もない薄ら明りだった。慌しい街路の雑沓に巻き込まれると、隆吉は肩をすぼめて寄り添ってきた。周平も其方へ身を寄せて歩いた。
 彼の頭の中ではもう、お清のことも保子のことも遠くへ距っていた。手に触れる隆吉の身体から、吉川のことがじかに胸へ響いてきた。吉川の手記が一句一句はっきり思い出された。彼は隆吉をひしと抱きしめたいような心地で、それでも何かに駆り立てられるような心地で、隆吉の手を取ってぐんぐん歩いた。心の底で、吉川の轍を踏むものか! と叫んだ。眼に涙がにじみ出てきた。
 隆吉を送り届けると、周平はそのまま帰ろうとした。それを、保子の影深い澄んだ眼でじっと見つめられた。躊躇してると、何処を掴んでいいか分らないような横田の態度に出逢った。
「君が帰ると晩酌《ばんしゃく》の口実がなくなっていけない。女や子供ばかりを相手にしないで、たまには僕にもつき合ってゆくさ。」
 その前に周平は自然と頭を垂れた。そして、夕飯の御馳走になり、取留めもない冗談を聞かされ、将棋を二三番さして、それから辞し去った。
 霜が降《お》りていそうな寒い夜を帰ってゆく途すがら、彼は対象の分らない漠然とした感激に包まれた。何物もない自分自身がいとおしかった。

     三十九

 夕方少し霙《みぞれ》が降ってすぐに晴れた寒い晩だった。周平は村田や橋本など三四人の友人と、蓬莱亭の階下の室で雑談していた。熱い酒を飲んでも、煖爐の側に身を寄せていても、すぐに足先からぞくぞくした寒さが伝わってきた。妙に話がはずまなかった。
 その時、表からふいに飛び込んで来た男があった。扉をばたりと後ろに閉めて、つかつかとこちらへやってきた。それが竹内だった。
 周平はぎくりとした。竹内も一寸狼狽したらしかった。が彼はすぐに、見開いてる輝いた眼を、金縁眼鏡の下に笑いくずしながら、皆の中にわり込んできた。
「馬鹿に寒い晩だね。外を歩いてると堪らなくなって、飛び込んできちゃった。」
「一人だったのか。」と村田が云った。
「え?」と竹内は怪訝な顔をした。
「一人とは珍らしいね。」
「なあに、いつも一人さ。井上君のようなわけには行かないよ。」
 そのあてつけが周平は癪に障った。竹内はいつも、文士の誰かにくっついてるか、または友人の誰かと一緒になっていて、決して一人のことがないというのが、彼等の間の定評だった。竹内自身もそれを知ってる筈だった。そして、村田が云ったのは確にその意味に違いなかった。それを彼は変に皮肉にねじまげて、暗に周平を揶揄してきたのだ。周平はじっと彼の顔を見つめてやった。彼は素知《そし》らぬ顔をして隣りの者の杯を引ったくっていた。
「兎に角、内部から温めるに限る。」
 そして彼は、三四杯たて続けに飲んで、それから勝手に皆の数だけ、ホット・ウイスキーを命じたりした。
 竹内の冗談口《じょうだんぐち》に、会話は俄にはずんできた。彼はいろんな方面にもぐり込んでるだけに、単なる学生である皆の知らないような話を、いくつも持っていた。その上、彼はその晩変に饒舌だった。一人で会話を奪っていった。白っぽく取澄した顔をしてお清がやってくると、無遠慮にその手を取って引寄せながら云った。
「まあここに坐れよ」そしてちらと周平の方を顧みた。「井上君がいやに黙ってるから、君がその代りをするさ。」
「黙ってる人があって丁度いいわ。先刻からあなた一人で皆の分を饒舌《しゃべ》ってるじゃないの。」
 彼女はぐるりと卓子を廻って、煖爐の火を見る風をしながら周平の側に一寸|屈《かが》んで、それから向うへ行った。
 然し周平は彼女の方へ眼をやりもしなかった。不快の念が次第に胸へたまってきていた。気持の上のこだわりを自分でどうすることも出来なかった。我慢すればするほど益々悪い結果になりそうだった。
 彼は立ち上って、思い切って伸びをしてみた。
「すっかり暖くなっちゃった。」と彼は云った。「今晩少し用があるから、僕はこれで失敬するよ。」
「もう行くのか。」と竹内が、軽蔑的に口を尖らして彼の顔を見上げた。「君とはだいぶ暫くぶりだったね。……おい、水曜日にも横田さんの所へ少し来いよ。勿論君は、始終あの家へは行ってるだろうが。」
 それを黙って見返した自分の眼付が、殆んど敵意に近い色を帯びてるのを、周平は自ら感じた。そして軽く頭を下げながらつと立ち去った。
 扉を押して外に出ると、ぞっと寒気《さむけ》がした。其処へ、後から村田が追っかけてきた。
「僕も帰るから、其処まで一緒に行こう。」
 周平は急に涙ぐましい心になって、彼の手を握りしめようとしたが、思い返してそれを止した。自分自身に対して腹が立った。
 乾ききった冷たい空気が、風とも云えない風をなして、襟の裾の間から吹き込んできた。街灯の光りが冴えきってるのに、物の隅々が妙に薄暗かった。
「不愉快な奴だな。」と村田は呟いた。
 竹内のことだと分っていたが、周平は何とも云わなかった。下宿の方へ足を向けると、村田はなお別れないでついて来た。可なり暫くたってから、彼は突然云った。
「何処かへ寄ってゆかないか。」
 眼を地面に落したままで、独語のような調子だった。いつもと様子が異っていた。周平は横目でじろりと見て、すぐに応じた。
「寄ってもいい。」
 二人はそれきり黙って歩いた。然し云い合したように、別の心安いカフェーの前にいつしか出てしまった。
「まあ、暫くぶりね。」
 顔馴染の女中にそう云われて、周平はただ苦笑した。お清の許へ行きつけてから、いつの間にか他の場所へは足が遠く
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