が、その間に彼女は身を引いて、停留場の方へ歩き出した。
 電車の上から彼女が、堅く引緊めた頬に微笑を浮べて、伏目がちにこちらを透し見やった時、彼は振りもぎるような気持で、つと歩き出した。彼女を乗せた電車が側を走り過ぎると、凡てがしいんとなった。
 彼は真直に下宿の方へ帰っていった。早く身を休息《やすらい》のうちに横たえたかった。もう何にも考えたくなかった。
 星の光りの淡い寂しい空の下に、掘割に沿った崖道が先低く続いていて、その向うにぽっと明るい広辻の見えるのが、却って佗しい気分を唆った。首垂れながら歩いていると、何処からかまぐれ犬が出てきて、裾のあたりをうそうそ嗅ぎながらつけてきた。彼はそれをやり過しておいて、ふいと横町へ外れた。暫くして振り返ってみた。まばらな軒灯の光りが冷たく縮こまって見える、薄暗い夜更け通りには、生き物の影は一つも見えなかった。彼は不気味な慴えを感じて足を早めた。
 下宿へ帰って自分の室にはいると、みすぼらしい室の有様が、ぴたりと心に映《うつ》ってきた。彼は俄に寒さを。覚えて、両手を胸に押しあてながら震えた。その時、懐に押し込んでる金入を着物越しに感じて、それを机の上に抛り出すつもりで、懐から引出して、何の気もなく一寸開いてみた。……中には紙幣が十円と五円と二枚はいっていた。その朝野村から借りてきたままのものだった。
 彼は惘然と考え込んだ。お清が何のつもりでそういうことをしたのか、彼には合点がゆかなかった。然し兎に角心あってしたことには違いなかった。彼女は細かなのを――二三円だけを彼の金入から引出して、他は皆自分の金を使ったのだ。ああいう身分の女としては全く意外なことだった。そして……「空っぽかも知れないわよ」と冗談のように云った彼女の言葉が、彼はその時気にも止めなかったが、今はっきり思い出された。
 考えていると、それからそれへと種々なことが頭に浮んできた。もはや彼女から遁れられないような気がした。
 お清と高井英子と同一人ではないかという疑問は、それが消え失せた今となっては、根のない馬鹿げたもののように思われた。然し、その疑問が今迄如何に重大な働きをしていたかを、彼ははっきり知ることが出来た。余りにも事もなく消え失せはしたけれど、その後では、凡ての事情が一変してしまった。恐れていたことが遂にやってきた。彼は直接お清に面して立たなければならなかった。而もお清は、彼から一歩ふみ出しさえすれば、彼の手中に身を託してきそうだった。
 彼は抗し難い怪しい誘惑を俄に感じだした。その誘惑の下から、保子の面影がじっと覗き出していた。保子なら……と思うことが、更に感傷的に彼の心をお清の方へ惹きつけた。その下からまた、保子の面影が浮び上ってきた。
 彼は堪らない気持になって、冷たい薄い布団の中に頭まですっぽりもぐり込んだ。息苦しくて眠れなかった。夜着の襟から顔を出すと、電灯の光が眩しかった。起き上って室の中を真暗にした。廊下の薄ら明りに、障子の紙がぼーっと仄白く浮出した。彼はそれから眼を外らして、真暗な中を見つめた。光りの中に出ることも眼をつぶることも、共に恐ろしいような気がした。自然に眠るまで、ただ闇の中に眼を見開いていたかった。

     三十七

 周平が夜遅くお清を連れて歩いてたということが、間もなく友人間に知れ渡ってしまった。それを最初周平の耳に伝えたのは、何事にも差出口をして親切振った態度を見せる、橋本という背の低い男であった。
 ノートの包を抱えて、弱い日の光りが差してる大学前の通りを、久し振で通っていると、向うから来る橋本にばったり出逢った。
「やあ、珍らしいね、今日は学校に出たのか」と足を止めて橋本は云った。
「出るには出たが、面白くないから帰るんだ」と周平は答えた。
 そして彼は、そのまま橋本と別れるつもりで、すたすた歩きだした。四五歩行くと、後から橋本の声がした。
「それは、学校より蓬莱亭の方が面白いにきまってるさ。」
 周平は驚いて振り返った。橋本は微笑みながらついて来ていた。
「皆が君の腕前に感心してたぜ。あのしたたか者のお清を手に入れようとは、誰も思わなかったからね。……然し、注意しなけりゃいけないぜ。お清一人ならいいけれど……。」
「何だい?」
「いや……まあいいさ。しっかりやり給え。万一の場合には僕も力を添えてやるよ。なあに、若い者の特権だからね」
 周平はその顔を眺めたが、言葉からと同じく、何の意味をも掴むことが出来なかった。然し深く尋ねたくもなかった。
「今日は一寸急ぐから、何れまた逢おう。」
 面喰ったような瞬きをしてる橋本を其処に残して、彼はぷいと立ち去った。
 つまらないおせっかいを出しやがる、と彼は忌々《いまいま》しげに思ったが、その後で、橋本の言葉が妙に気になってきた。単にお清のことばかりでなく、その底にまだ何かありそうな調子だった。けれど、いくら考えても思い当る事柄はなかった。ただ保子とのことが一寸頭に浮んだけれど、それは誰にも知られる筈がなかった。
 皆がどういう噂をしてるか、その底まで彼はつきとめたかった。然し、よく一緒に酒を飲んだりなんかしていても、心を許せる親しい友は村田一人きりだった。といって、わざわざ村田に尋ねるのも業腹《ごうはら》だった。
 なにそのうちには分る、と彼はしまいに投げだしてしまった。そしては、却て反撥的な気持になって、時々蓬莱亭へ行ってみた。然し、三階へはもう上らなかった。お清に対しても自分自身の心に対しても、変に憚られるものがあった。
 室の隅っこの小さな卓子に就いて、ぼんやり考え込んでると、お清は時々やって来た。彼女の様子は前と少しも変らなかった。ただ一種の親しみを見せて、低い声で囁やくように云った。
「あれから竹内さんがさっぱり来なくなったわ。少し薬が利《き》きすぎたようよ。」
 周平が黙ってその顔を見ると、彼女も笑みを含んだ眼付で見返してきた。
「あなたはこの頃何を考え込んでるの。気にかかることでもあって?」
「何にもありはしない。ただ変に気がふさいでいけないんだ。……それで、あの陰気な三階へはもう上らないことにしたよ。」
「そう。此処の方がいいわね。……そのうちまた何処かへ行きましょうか。」
「ああ。」
「私いい折をねらってるわ。」
 そして彼女はじっと彼の顔を見つめた。彼はその顔を外らさなかった。変な気持だった。暴風雨《あらし》の後の静けさに似た一種の親しみが、しみじみと彼を包んでいった。その下から強い慾望が頭をもたげかけるのを、彼は強いて抑えつけた。そしてぽかんとした気分になって、美しい彼女の眼をぼんやり眺めるのだった。
 そして、お清に対するそういう親しみは、二人差向いでいる時よりも、大勢の中に居る時の方が、更に微妙な刺激を彼の心に伝えた。
 周平とお清との噂が立ってから、周平の友人等は、多く蓬莱亭へ集るようになってきた。周平は気が進まない時にでも、または金に困ってる時にでも、屡々一緒に引取ってゆかれた。
「軍資金は僕達が調達するからしっかりやり給え。」などと云って、公然と唆《そその》かす者さえあった。
「だが、いい加減にしといた方が君のためかも知れないぜ。」と忠告めいたことを云う者もあった。それは大抵橋本だった。
 それらのことを聞くと、周平は昂然と頭をもたげた。たとい悪意からでないにしろ、一種の好奇心から彼等が煽《おだ》ててることを、周平はよく見て取っていた。そして、その底にはまだ他に何かあることも、よく感づいていた。然し、もう弁解や穿鑿をすべき時ではなかった。凡てを盲目的に踏みにじってゆく方が、最も近途らしく思われた。何処に出る近途かということは分らなかったが、ただそうすることによって、最も早く何処かに出られそうな気がした。
 濛々と煙草の煙が立罩めてる階下の広間で、煖爐の方へ足先を差出しながら、周平は一人黙りこくって、勧められる杯だけを、片端から空《あ》けていった。其処へよくお清は割り込んできた。
「井上さん一人を酔わしてどうするつもりなの。皆でよってたかって、可哀そうだわ。」
「ようよう……その通り、だから君が少し助けてやるさ。」
「ええ、いくらでも私が引受けてやるわ。」
 そして彼女は、周平の前にある杯を一つぐっと干したが、それからまたぷいと向うへ行ってしまった。
「おい、井上、黙ってるって奴があるか。何とか感謝しろよ。」
 周平はきょとんとした眼を挙げて、皆を見渡した。彼等の顔が馬鹿げて見えた。彼は吐き出すように云った。
「僕の知ったことじゃないさ。」
「なんて、澄してる所を、お清ちゃんに見せたいね。」
 だが、お清は向うの隅に立って、周平の方へちらと目配《めくば》せをしていた。周平も大胆に目配せを返した。彼女は水を持ってきてくれた。煖爐にあたる真似をして、肩を一寸聳かしてみせた。その眼に、彼は眼付で微笑んでみせた。彼女は煙草を一本取って、一寸吹かしてから、おお辛《から》いと云いながら持て余す様子をした。それを彼は引受けて自分で吸った。立去る時彼女は一寸彼の袖を引いた。もう酒を止せという相図だった。それでも彼は皆からなお勧められると、じろりと横目で、向うに居るお清の顔を見た。お清は睥むような眼付をした。彼は口を尖らしながら睥み返した。そして杯を手にした。
 そういうことが――二人差向いでいる時には妙にぎごちなく思われることが、大勢の面前では、何のこだわりもなく敏活に相通ずるのであった。そして彼は、其処を出る時には可なり酔っ払っていた。足がふらふらしていた。
「危《あぶな》いわ。気をおつけなさいよ。」
 口早に囁いたお清の言葉が、長く彼の耳に残っていた。彼は皆から一二歩後れがちに足を運びながら、寒い夜の空気に頭をさらして、云い知れぬ悲壮な気持になっていった。我知らずお清のことを思っているのが、いつしか保子のことに変りがちだった。しまいにはその二つが一緒になって、彼の眼の前で渦を巻いた。

     三十八

 悪夢に似た呪わしい気持だった。周平は自分の心の向う所に迷った。そしてその昏迷のうちに、半ば自ら進んで、捨鉢に踏み出して行こうとした。然し、昼の明るみは彼を引止めてくれた。十一月から十二月の初めにかけて、わりに暖かい晴々とした日が続いた。高く冴えきってる空が、木々の梢や屋根に流れる黄色い日の光りが、彼の心を冷かに醒めさした。彼は涙ぐましいほど引き緊《しま》った心で、而し、救いの手を待つような落着いた心で、毎週月曜日と、それから他の日にも時々、横田の家へ行った。
 保子は日当りのいい縁側近くで、雑誌を読んでいたり、正月のための縫物をしていたりした。周平はその方へ一寸挨拶をしたきりで、黙って火鉢の上にかじりついた。火箸の先で灰の中をかき廻しながら、身をも心をも彼女の前に投げ出したような気持になっていた。
「井上さん、」と保子は静かな声で云った、「あなたくらい寒がりはないわよ。いつも火鉢にかじりついていて、そんなに寒いんですか。」
「ええ。私は寒さが一番厭なんです。」
「そう。じゃあ今に火燵を拵えてあげるわ。」
 周平は顔を挙げて、針の手先から眼を離さないでいる彼女の方を眺めた。化粧水と水白粉《みずおしろい》とだけを薄《うっ》すらと刷いた横顔が、神々しいほど淋しく見えた。その彼女を前にして、火燵の中に蹲りながらひそかに涙を流してる自分の姿が、想像のうちに浮んできた。
「あなたは冬の休みをどうするつもりなの。」
 周平はその言葉を聴きもらした。黙ってると、彼女は初めて顔を挙げて彼の方を見た。
「冬休みに旅でもするの。」
「いいえ」と周平は答えた。「金がないから東京を動けやしないんです。」
「無いからというより、無くなしたからでしょう、余り勝手な真似をして。」
 周平はぎくりとした。何とか答えようと思ったが、彼女からじっと見つめられると、心の底まで見透される気がして、顔を伏せた。お清とのことも知られてるに違いなかった。然し知られても構わないと思った。愈々の時には、一切を告白して彼女の前にさらけ出してや
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