チをすった。真白な淋しい顔がぽっと輝し出されてすぐにもやもやとなった。その瞬間に、彼女は肩の手を滑らして、彼の手の指を小指と藥指と二本探って、そっと握ってきた。
「ねえ、訳を仰しゃいよ。」
 取られた二本の指から、しみじみとした而も妙に腹立たしい感情が、胸の奥までしみ通っていった。彼は我知らず話し出した。
「僕は今或る家の家庭教師みたいなことを少ししてるんだが、その子供が実は孤児《みなしご》なんだ。お祖母《ばあ》さんが一人あるけれど、それとも別々になって、叔父さん夫婦の家に引取られてるのさ。叔父といっても本当のでなくて、父親の従兄《いとこ》なんだが……。」
 そこまできてつかえたのを、彼はがむしゃらに云い進んだ。
「その従兄弟同士で、以前、或る一人の女に恋したのさ。いろんなことがあって、女は一方を選んでしまった。選にもれた方の人は、半ば自暴自棄になっていったが、そのうちに或る女と同棲するようになって、子供が一人出来た。すると間もなく、その女から逃げ出されて、しまいに病死だか自殺だか分らない死に方をしたんだ。後には子供とお祖母さんとが残った。そして、お祖母さんの方は他家《よそ》に雇われてゆき、子供の方は、父の従兄《いとこ》と恋人と一緒になってる家へ、引取られて世話されてるんだ。」
 彼は突然口を噤んだ。がすぐにつけ加えた。
「その子供の母親を高井英子というんだが、いろんなことから考えると、それが君のことらしい気がするのさ。」
 吐き出すように云ってしまってから、彼は俄に不機嫌になった。今まで一生懸命に考えてたことが、いざとなると、変につまらなくなってしまった。馬鹿げていた。けれども、それでいてやはり真剣な心地だった。
「そう、不思議な縁ね。」とお清は呟いていた。彼はその顔をじろりと見やった。
「私がもしそうだったら、あなたはどうして?」
「どうもしないさ。」
「そうでなかったら?」
「どうもしないよ。」
「それじゃ訳が分らないじゃないの。」
「分らないさ。」
 そして彼は黙り込んでしまった。何を不機嫌に腹立ってるんだと自ら浴せかけてみたけれど、妙にこじれた気持が納らなかった。お清になお二三度言葉をかけられたが、返辞をしなかった。
 池を一周してしまうと、お清は突然立ち止って云った。
「何か食べましょうか。私|疲《くたび》れちゃったから。」
 周平は機械的に首肯《うなず》いてみせた。どうとでもしろという気になっていた。
 二人は電車通りに出て、すぐ其処の鳥屋へはいった。

     三十六

 通されたのは奥まった六疊の室だった。お清はがっかりしたように、肩掛を丸めて床《とこ》の間《ま》の上に抛り出しながら、餉台の前に膝をくずして坐った。お召の着物の上に金紗の羽織をだらりとつけていた。淡緑色の無地の繻絆の襟から、痩せてるわりに肉のむっちりした真白い頸筋を伸べて、周平の方へ微笑みかけた。
「ああ、これでやっと落着いたわ。」
 然し周平は落着かなかった。明るい電灯の光りに輝らされると、彼女の服装に比べて、自分の垢じみた銘仙の着物が、如何にもみすぼらしく思えてきた。それよりも、今こうして彼女と向き合って坐ってることが、先刻からのことと、全く飛び離れた世界に在るような気がした。
 眉間に大きな黒子《ほくろ》のある首の短い女中が、二三の料理や寄せ鍋の道具を運んできた。
「私がしますからよござんすよ。」
 お清はそう云って女中を追いやった。
 器用な手附で餉台の上や鍋の中を整えてる彼女の姿を、周平は不思議な気持で眺めた。痩せ形《がた》の顔や腰に比較して、頸から肩から胸へかけ、わりに厚ぼったい肉付があるのに、一寸眼を惹かされた。それに自ら気が付くと、急いで眼を外らしながら、続けざまに杯を重ねた。
「あら、そんなに急に飲むと酔っちゃうわよ。」
 それでも彼女は、彼の杯を少しも空《から》のままにしておかなかった。そしてまた同じくらいに、自分の杯へも手の銚子を持っていった。
「私あなたとこんな処へ来ようとは思わなかったわ。」
「僕も思わなかったよ。」
 軽く受けてじっと眼を見据えてる彼の方へ、彼女は俄に真顔で向き直ってきた。
「井上さん、先刻《さっき》の高井……英子とかって人ね、あなたはどうして私をそうじゃないかと思ったの。」
「ただそんな気がしたからさ。」
「嘘仰しゃいよ。」
 睨めるようにした彼女の眼付が、保子のとそっくりな閃きを見せた。周平はぎくりとした。彼女はまた疊みかけてきた。
「どうしてあなたはその女《ひと》のことを、そんなに気にしてるの。誰にも云わないから、訳を聞かしてもいいでしょう。」
 顔をあげると、もうその眼付は消えて、円みを持った細い眉の中に二重眼瞼の眼がぱっちりと開いて、小さなやさしい黒目が彼の方をじっと覗き込んでいた。彼は急に気が挫けてきた。彼女のうちの善良なものに何かを訴えたくなった。
「訳があるというんじゃないが、僕はその子供を教えてやってるし、子供の父親のことも可なり聞いてるし、子供を引取ってる奥さんにも随分世話に……。」
 云いかけて彼は、きっと唇を噛んだ。
「その奥さんでしょう、あなたを大変可愛がってるというのは。」
 彼は駭然として彼女を見つめた。
「そんなに喫驚しなくってもいいわ。別に変な意味で云ったんじゃないから。」
「じゃあ特別にそんなことを断らなくてもいいさ。」
「だけどあなたが変な風にとったようだから……。」
「馬鹿なことを云っちゃいけない。僕はその奥さんに非常に世話になってるんだ。心から本当に感謝してるんだ。」
 彼はぷっつり言葉を切って黙り込んだ。云えば云うほど、心と言葉とがちぐはぐになりそうだった。そしてその結果が恐ろしくなった。お清の美しい二重眼瞼の眼がすぐ前に見開かれていた。
「いやに考え込んじゃったのね。」と暫くしてお清は云った。「もうそんな話は止しましょうよ。……何か面白いことはなくて?」
 客は余り込んでいないらしく、家の中がひっそりしていた。周平はいつのまにか保子のことを考えて、涙ぐましい心地になっていた。お清の言葉に顔を挙げて見やると、酒のためか、額や蟀谷のあたりに陰鬱な影を漂わしていたが、ぽっと熱《ほて》っているらしいその顔から、湿いを帯びた黒目と唇とが、まざまざと覗き出していた。
「何だか淋しい晩ね。」
 心もち傾げた首をそのままに、身を反らせ加減に疊についていた左手を餉台の上に持ってきて、人差指の先で一寸頬を支え乍ら、彼女は室の隅にじっと眼を定めた。
 その姿から、周平はもぎ離すようにして眼を外らした。愛慾とも感傷ともつかないものが、しみじみと胸の底から湧き上ってきた。電灯の光りが余りに明るく感ぜられてきた。心苦しくなって坐り直した。
「もう出ようか。」
「ええ。」
 口先だけで軽い返辞をして、それでもじっと見返してきた彼女の眼を、周平は顔を伏せて避けた。そして咄嗟に、懐の金入を彼女の前に抛《ほう》り出した。
「僅かしかないが、それでいいようにしといてくれよ。」
 その日の朝、飜訳の原稿を少し届けて野村から借りてきた十五円と、他に細《こま》いのが少しはいってる筈だった。
「そう。じゃあ預かっとくわ。」
 彼女は金入を帯の間にしまいかけたが、ふと顔を挙げた。
「あなたは苦学してるんじゃないの。」
「苦学というほどでもないさ。」と彼は苦いものでも吐き出すようにして云った。
「私これで、あなたのことはよく知ってるつもりよ。……私もね、東京へ逃げてきた当座、それはつらい生活をしたのよ。一日お藷《いも》をかじって過したこともあってよ。けれど、その頃が一番よかったわ、今から考えると。」
 周平は俄に眼を輝かした。
「今君は何をしてるんだい。」
「何をって、カフェーの女中じゃないの。」
「それは分ってるさ。だが、何処に住んで何をしてるんだい。」
「何にも別に悪いことはしてないつもりよ。」
「将来何をするつもりだい。」
「そうね、今考え中よ。」
 周平は更に疊みかけて尋ねようとしたが、彼女が口元に薄ら笑いを湛えてるのを見て、言葉が出なくなった。それを駄々っ児らしい気持で云い進んだ。
「ねえ、聞かしたっていいじゃないか。」
「今に分るわ。」と云って彼女は眼で笑ってみせた。そして急に調子を変えた。「それじゃ行きましょうか。」
 彼女が手を叩いて、女中を呼んで、それから、勘定を済ますまで、周平は黙って頭をかかえていた。自分自身が妙に頼りなくて、頭が非常に重く感ぜられた。彼女から促されると、慌て気味に立ち上って帽子を取った。そして、先にたって外へ飛び出した。
 明るい電車通りが眩《まぶ》しいように思われて、周平はまた池の方へ曲り込んだ。
「もう夜店もおしまいね。」とお清は後について来ながら云った。
 まだ可なり人通りのある明るい街路に、早くもしまいかけてる夜店の灯が、妙に薄ら寒く散在していた。それを池の方へ曲ってしまうと、地の下から伝わってくるような底冷えが感ぜられた。霧は空高く昇ったらしく、星の光りが朧ろに薄らいで見えていたが、地上の空気は冷たく乾ききっていた。
 もう何にも云うこともない、と思うのが俄に淋しくなって、周平は肩をすぼめた。
「僕は酔っちゃった。」
「私も。何だか頭がふらふらするようだわ。」
 ふーっと息をして彼は振り向いた。彼女は池の面に映《うつ》ってる灯をぼんやり眺めていたが、二三歩してから急に足を止めて、彼の方を覗き込んできた。薄暗い中で、睫毛の影のない露《あらわ》な眼が、黝ずんだ熱っぽい輝きを見せて、これからどうするの? と尋ねかけてきた。瞬間に、彼は凡てを忘れた。いきなり彼女の肩に縋りついていった。
 その時彼女は初めて彼に唇を許した。……が、余りに冷かな無感心な態度だった。一寸閉じてまた開いた眼と、濡れた海綿にも似た一種のはがゆい触感とが、彼がその咄嗟に感じた全部だった。彼は心の底から冷たくなっていった。黙って歩き出した。彼女も黙ってついてきた。
 狭い横町をぬけて、電車通りへ出ようとする時、彼女は云った。
「もう何時でしょう。」
 彼は返辞をしなかった。
「帰りましょうか。」
「ああ。」と彼は機械的に答えた。
 街灯の光りの中に出て、彼女はじっと彼の顔を眺めた。彼は顔を挙げなかった。
「私一寸買っていきたいものがあるから、一緒に来て頂戴よ」
 彼は広小路の角までついて行き、洋菓子屋の前で暫く待たされた。それから、牛込まで帰るのだという彼女と、なおお茶ノ水のあたりまで歩くことにして、薄暗い通りを、斜に順天堂の方面へつきぬけていった。
 彼女は手の菓子折をぶらぶらさしながら、いろんなことを饒舌《しゃべ》りだした。いつも一人でやって来て、黙って強い洋酒を飲んでゆく青年があったが、それが自殺してしまったこと、或る女中が人の妾になって、着飾った鷹揚な態度で遊びに来たので、盛んに皮肉を浴せてやったが、一向通じなかったこと、お主婦さんはいつもあんな仏頂顔《ぶっちょうづら》をしているけれど、相当の家柄だったのが零落して苦労してきた人だけに、非常に思いやりがあって、自分のような我儘者にも種々親切にしてくれること……など。然し彼女は、自分の身の上に関することは少しも話さなかった。
 周平はそれらの話をいい加減に聞き流しながら、心あってかなしにかそういう態度をしてる彼女に対して、一種の憤懣を覚えてきた。それが一転して、このまま彼女を手離したくない気持に陥っていった。然し今更どうしていいか分らなかった。苛ら苛らしてるうちに、順天堂の前まで来てしまった。
 彼女はぴたりと足を止めた。
「私あなたの下宿の前まで送ってゆくわ。」
 その眼を彼はじっと覗き込んだ。
「ねえ!」
 彼は危く我を忘れかけようとしたのを、強いて堪《こら》えた。
「いけないよ」
「そう。じゃあ蓬莱亭でね……。」云いさして彼女は帯の間から彼の金入を取り出した。「あの時預ったもの、お返ししとくわ。空っぽかも知れないわよ。」
 差出された金入を受取ると、彼は自分でも訳の分らない感情に駆られて、眼に涙がにじみ出てきた。
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