彼は何とも答えないで空嘯いてみたが、ふと、先刻自分がしたように、竹内が向うからこちらの様子に耳を澄してるに違いないと思うと、それが気になって落着けなかった。
「竹内ならこちらへ呼んできたらいいじゃないか。……僕が来てることは知ってるんだろう。」
「ええ。だけど一人がいいんですって。」
「変な奴だな。」
 お清は口を尖らしてみせた。
「何だい?」
「ほんとに変よ。あなたが来てると竹内さんはいつも帰ってゆくから、今日はだまかして三階に通してやったのよ。すると、おかしかったわ。酔っ払ってる癖に急に真面目な顔をして、内密内密《ないしょないしょ》だって……。」
「よし、そんなら僕の方から押しかけていってやる。」
 周平が立ち上ろうとするのを、お清は無理に引止めた。
「そんなに気にかけなくってもいいじゃないの。」
 云われてみると、周平はぎくりとした。何かと空威張《からいば》りをしてみても、やはり声をひそめてこそこそしていたことが、俄に頭に映ってきた。そして自分自身に腹が立ってきた。そのままでは済せない気になった。半ば捨鉢に声を高くして云った。
「おい、お清ちゃん。」
 お清は喫驚したように、二重眼瞼の眼を一杯見張ってくるりとさした。
「今晩何処かで逢わない?」
 云ってしまうと、案外心が落着いてきた。じっと見つめられたのを、彼も見返してやった。彼女はその眼を外らして、向うの室へちらと目配せをした。
「だからさ。」と周平は低く囁いた。
 お清は眼と口とで微笑んだ。
「どうだい。」
「今晩は駄目。」彼女も大きい声で云った。
「じゃあ明日《あした》。」
「明日ならいいわ。お午《ひる》から?」
「昼間はいやだ。晩にしよう。」
「ええ。八時頃。」
「本当かい。」
「本当よ。」
 言葉が途切れると、不思議な気持になった。二人共ぼんやり顔を見合った。嘘とも真《まこと》ともつかない約束が、ぽかりと投げ出されていた。周平は手を銚子にやったが、酒はもうなくなっていた。も一本とお清が云うのを断って、そのまま帰りかけた。
「どうするの?」とお清は低く云った。
 周平はその眼を覗き込んだ。敵意を以て挑みかかるような鋭い眼付だった。
「本当さ。」と彼は云い捨てた。そして咄嗟につけ加えた。「八時頃、お茶ノ水の橋で待ち合せよう。」
「屹度ね。」と彼女は声高く叫んだ。
「ああ。」
「じゃあお約束」
 彼女が小指だけ差出したのを、彼も小指を差出して、強く握り合せながら打振った。それから、何かを踏みにじるような気持で、わざと大きな足音を立てて階段を下りていった。足下《あしもと》がふらふらしていた。

     三十五

 霧深い夜だった。周平は約束の八時に五分前頃、お茶ノ水橋に行ってみた。変な意地からふと為した約束ではあったが、彼はもうそれを悔いてはいなかった。求めても得られないいい機会だった。此度こそ彼女に直接ぶつかってみよう、というのが彼の考えの全部だった。
 然しお清《きよ》はなかなかやって来なかった。周平は苛ら苛らしてきた。約束をした時の調子が調子だったので、或は来ないのかとも考えられた。彼は橋の西側を三四度往き来した。深い谷間に霧が濛々と渦巻いていて、両岸から差出た木立が梢の方だけ浮出して見え、その間から遠くに街路の灯が点々としてるのが、山の湯という感じを持っていた。彼はいつしかその景色に見とれて、橋の欄干にもたれて佇んだ。ともすると決心が鈍って、一種の甘い感傷に陥りかける心を、自ら気づいては抑え抑えした。
 彼はお清の家がどの方面にあるかを知らなかった。然し大抵は院線電車で来るだろうという気がした。電車が来て、可なりの人が停車場から吐き出されるのを、じっと物色してみたが、お清の姿を見出さないと、淡い不安に囚えられていった。そしてはまた橋の中程まで行って、その欄干にもたれて佇んだ。
 停車場から出て来た人の足音が途絶えて、あたりがひっそりとなった時、お清はひょっくり霧の中から現われてきた。
「御免なさい、遅くなって。」
 黙って彼の側へ寄ってきて、欄干に一寸手を置いたが、ふいに大きな声を立てた。
「おう冷たい。濡れてるじゃないの。」
 鉄の欄干が霧にしっとりと濡れてるのを、周平は初めて気づいた。驚いて手を引込めながら、彼女の顔をじっと眺めた。彼女は薄暗い中で大きな瞬きを一つして云った。
「でもよく来て下すったわね。私すっぽかされるのじゃないかと思って、蓬莱亭へ一寸寄って来たから、遅くなったのよ。」
「だって約束じゃないか。」
「約束は約束だけれど……。」
 云いさして彼女が、笑みを含んだ眺め方をしたので、周平は漸く心が落着いた。ただ彼女が、水浅縹色《みずあさぎいろ》の長い毛糸の肩掛をしてるのが、一寸変に思えた。
 周平は黙って歩き出した。橋から右へ河岸《かし》に沿い、万世橋の方へ行ってみたが、側を通り過ぐる電車の響がうるさくて、ふいと左の横町に曲り込んだ。お清は少し離れてついて来たが、人通りが少くなると、肩がすれすれになるくらいに寄ってきた。
「昨晩《ゆうべ》あれから可笑《おか》しかったわ。」
「何が?」
「竹内さんがね、やっぱり私達の話を聞いてたとみえるわ。何処へ行く約束をしたんだいと聞くんでしょう。そんなことを聞く人があるものですかとつき放してやると、そんなら、君達はいつ頃からそういう仲になったんだい、ですって。」
 周平は何とも云わないで振向いてみた。彼女は澄して云い続けた。
「あんまりだから、私白ばっくれて、もうずっと前からよ、今迄気がつかないなんて、あなたも随分ぼんやりね、と云ってやったの。すると此度は、前からっていつ頃だいと、いやにしつっこく聞くんでしょう。いつ頃からだか覚えていないと答えると、暫く考えこんでから、急に真面目になって、それじゃ僕は井上君に忠告してやらなけりゃならない、ですって。随分人を馬鹿にしてるわね。」
「それから?」と周平は少し気になって尋ねた。
 お清は心もち肩を峙てて霧の中を透して見るようにしながら、五六歩した後に云い続けた。
「そして云うことが振ってるわ。井上君は君とそんなことをしては他に済まない人が居る筈だと、こうなんでしょう。……でも、あなたそんな人があって?」
 周平はぎくりとした。竹内が最近横田の書斎へ時々顔を出してる由を、俄に思い出した。然し、済まないというのがどういう意味であるか推しかねて、黙っているうちに、お清は先を続けた。
「あってもなくっても、そんなこと別に構やしないわね。だけど、あんまりな云い草だから、あなたはいやに人を見下してるのねと、つっかかっていってやったの。私少し酔ってたのよ、屹度。そして訳の分らないことを云い争ってるうちに、何だかこんぐらかってしまって、それから、竹内さんの捨台辞にね、要するに僕も君に惚れてるのさ、ですって。私鼻の先でふんと澄してやったわ。……あんな厭な人ってありゃあしない。」
「そんなに悪く云うもんじゃないよ。」と周平は漸く云った。
「構やしないわ。すぐにおかしな関係があるように取るのが、あの人のいつもの癖なんだから。先《せん》にも同じようなことがあったのよ。」
「石のつぶての一件の時かい?」
「あら、あなたも知ってるの……あの時はほんとに可笑しかったわ。でもあれは、私の知恵じゃないのよ。お主婦《かみ》さんと二人で一生懸命に考えたのよ。」
「然し随分長い間の執念だね。」
「え?」
「竹内がさ。」
「何だか分ったものじゃないわ。あの人にはいやな野心ばかりしかないんだから、うっかり出来やしない。私ちゃんと尻尾を掴んでいることがあるのよ。」
 そんなことを話してるうちに、周平は次第に心が或る深みへ引きずり込まれる気がした。お清の言葉を本当だとすれば、そういう風に自分との関係を竹内に伝えられた以上は、今後このままでは済みそうに思えなかった。一時の意地張りからとは云えないものが感ぜられてきた。そして彼は、一種の甘い心の動きと矜りとを禁じ得なかった。それが一転して気遣わしい不安となった。彼は竹内のことを考え、次に保子のことを考えた。然しお清から来る魅惑の方が更に強かった。それに抵抗しようとしても、ともすると足が滑りそうだった。縋るべきものはただ一つの問題のみだった。彼は愈々時機が来たのを感じた。
 電車通りへ出た時、お清は一寸足を止めた。彼はそれに構わず、黙って通りを向うへ横切った。それからすぐに不忍池《しのばずのいけ》の端に出た。
「もう活動や寄席《よせ》も遅いわね。」
 その言葉が彼には、何かを促すように聞き做された。
「一寸話があるんだが、も少し歩かない?」と彼は云った。
 大きく見開いた眼でじっと見られたのを、彼は上から押被《おっかぶ》せた。
「もう疲れたの。」
「いいえ、歩くわ。……どんな話?」
 彼は何とも答えないで、云い出すべき言葉を心の中で考えながら、池の岸に沿ってゆっくり足を運んだ。彼女も彼と肩を並べてついてきた。
 霧は少し薄らぎかけていたが、まだ星の光りは見えなかった。一面に茫とした中に、弁天島や対岸の点々とした灯が、魚の眼のように浮出していた。枯蓮の静まり返ってる池の面から、裾寒い空気が寄せてきた。周平は眼を足下に落しながら云った。
「真面目な話だから、本気で答えてくれなくちゃ困るよ。」
「あなたが本気で云うんなら、私も本気で答えるわ。」
「そしてね、これは秘密の話なんだから……。」
「ええ、誰にも洩さないわ。」
 余り事もなげな調子だったので、周平は多少不安な気もしたが、もう躊躇する場合でなかった。いきなり切り込んでいった。
「君に姉さんがありはしないかい。」
「あるわ、二人。」
「今どうしてるの。」
「二人共お嫁に行って、仕合せに暮してるそうよ。……私はもう長く逢ったことがないから、よく知らないけれど。」
「初婚かい。」
「ええ、早く結婚しちゃったのよ。」
「何処で?」
「名古屋で。名古屋が私の故郷よ。」
「それじゃ、君に妹があるかい。」
「私は末っ児よ。」
「君の名は高井清子といったね。」
 彼女は笑い出した。笑いながら周平の腕につかまってきて、自棄になったように揺ぶった。
「しっかりなさいよ、馬鹿々々しい!」
「いや、これから追々本当の問題に触れてくるんだ。」
 と云ったが、それが自分でも変に調子外れの気がして、彼はぼんやりしてしまった。話の緒《いとぐち》が分らなくなった。それを強いて云い進んだ。
「君は以前に、或る人と同棲していて、子供を産んだことがあるだろう。」
 怒鳴りつけるように云い捨てた彼の言葉が消えてしまってから、暫くして、お清は落着いた調子で答えた。
「ええ、あるわ。」
 周平はぎくりとして振り向いたが、彼女の顔はただ真白な冷たさで静まり返っていた。
「それじゃ、その子供が今どうしてるか知ってるかい。」と周平は急き込んで尋ねた。
「知ってるわ。」
「じゃあ僕のことも知ってるんだね。」
「あなたのことって、一体どんなこと?」
 見返した彼女の眼は、冷かに澄み切っていた。周平は黙って歩きだした。頭がもやもやしてきた。
「どうしたのよ。」とお清は後から追っかけてきた。「すっかり仰言いよ。訳が分らないじゃないの。」
「だが……その子供は今何処に居るんだい。」
「地の下に居るわ。他家《よそ》にやってるうちに死んじゃったんだから。」
 周平はぽかんとして足を止めた。その顔を彼女は覗き込んできた。そして俄に言葉を続けた。
「それをどうしてあなたは知ってるの。」
「本当に死んだのかい。」と周平は云った。
「本当でしょうよ、屹度。」
 無関心な調子でそう云い捨てておいて、彼女は更にじっと覗き込んできた。周平は眼を外らしてまた歩きだした。
 暫くすると、お清は後からふいに呼びかけてきた。
「井上さん!」
 周平はちらと投げた眼付でそれに答えた。
「あなたはどうしてそんなに子供のことを気にかけてるの。何か訳があるんでしょう。」
 彼女は小走りに二三歩寄ってきて、周平の肩に軽く手を置いた。その接触を周平は俄に息苦しく感じた。袂から煙草を探ってマッ
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