たのを、却って反撥的に出て、平然と三階に落着けるようになった。
「僕は此処にじっとしてるのが好きだ」と彼は女中達に云った。
窓を開け放すと、高い建物の間に挾ってる低い屋根並の彼方に、街路の灯が点々と連っていた。それが、遠くに聞きなされる電車の響きに包まれて、ちらちら戦いてるように見えた。晴れた晩には、奥深く澄みきってる寒空《さむぞら》の一部に、凄いほど冴えてる星の群が見えた。月の光りが射す時には、露か霜かに濡れてる近くの屋根の瓦が、鱗のような冷たさに一枚々々光っていた。周平はそれらの景色を眺めながら、云い知れぬ悲壮な気持になっていった。保子のことが――庭に屈んでる所をじっと彼女から見られたこと、月末に或る落語家の独演に誘われたこと、不自由なことがあったらいつでも仰しゃいと云われたこと、用もないのに用ありげな口調で長く待たせられたこと、月曜日をなまけて暫く行かないでいるといきなり叱りつけられたこと、着物の縫い直しを女中にして貰ったこと、長い間二人で黙って坐っていたこと、手の爪を切れと云われたこと――などのいろんなことが、頭の中に一時に湧き上って、捨て去ろうとしてる幻が空遠くに浮出してくる。何かに縋りつかないではおれない気持だった。冷たい夜の空気が窓から流れ込んできて、その気持を益々痛切になしてくれるのが、今は却って快《こころよ》かった。
その窓を、お清がやって来てはいつも閉めた。
「寒いじゃありませんか。」
「そんなら煖爐《ストーヴ》でも据えてくれるがいいよ。」
「いくら煖爐を置いたって、あなたみたいに開け放しちゃ、何にもならないわよ。」
窓を閉められて、お清の顔をじっと見てると、周平は俄に寒さを感じ出した。足先と手先とに二つ火鉢を置いていても、ちっとも暖くなかった。
「それ御覧なさい、震えてるじゃないの。」
彼女も肩をすぼめて火鉢の上に屈み込んだ。真白な頸筋から甘酸《あまず》っぱい匂いが洩れてきた。周平は眼を外らして、冷たくなった杯を口へ運んだ。
「熱いのを持って来ましょうか。」
「ああ。」と彼は機械的に返辞をした。
新らしい銚子を持って来る時、お清は扉を開くと同時に、一寸微笑んで睥むような眼付をした。それがともすると、保子の眼付によく似ていた。周平は気持が胸の底へ底へと沈み込んでいった。何も話の種が見つからなかった。お清も別に話題を探すらしくもなかった。
「何を黙って考え込んでるの。」と彼女は云った。
「君の方が黙ってるじゃないか。」
「あなたの所へ来ると何だかしんみりしちゃうのよ。」そして彼の眼をちらと覗き込んで、急に早口で云った。「余り他で饒舌り疲れたせいかしら。」
「そんなら、疲れたらいつでもやって来るさ。」
「そうね。」
と云いながら彼女は、何処にも疲れた風はなく、暫くするとまたすぐに室を出て行った。
お清が出てゆくと同時に、周平は立上って室の中を歩きだした。卓子のまわりを二三回した後、また椅子に腰を下ろして火鉢にかじりついた。
室の空気が冷たかった。彼の心も冷たくなっていた。白い天井の方だけが明るくて隅々が薄暗く思われる、裸壁の狭い室に、一人取残されたような自分自身を見出すのが、堪らなく淋しかった。お清を前にして酔っ払ってゆくことは、捨鉢な好奇な気持を煽り立てる力となったが、お清が室から出ていった後は、どうにも出来ない淋しさに囚えられた。その淋しさをじっと我慢してると、もう身動きをするのも厭なほど気がめいりこんでしまった。
暫くしてお清がまたやって来ても、彼は火鉢の上に伏せた顔を挙げなかった。
「どうしたの……怒ってるの?」
お清は寄ってきて、彼の顔を覗き込んだ。彼は黙っていた。
「およしなさいよ、考え込むのは。それでなくっても、この室は何だか淋しくていけないわ」
彼はぼんやり彼女の顔を眺めた。いつも忙しそうにあちらこちら往き来してるのが、彼には腑に落ちなかった。どの家でも、またこの家でも、他の女中は大抵同じ所にじっとしているものなのに、お清一人が例外だった。
「君はどうしてそう方々の室を飛び廻るんだい。」と彼は云った。
「私が行かなけりゃ治りがつかないからよ。」
「なんだ、威張るなよ。」
お清は声高く笑って、煙草に火をつけた。その煙をふーっと口の先で吐きながら云った。
「私一つ所にじっとしているのは嫌い、気づまりでいけないから。……でもあなただけは例外よ。」
それでも、煙草を一本吸ってしまうと、また出て行こうとした。周平はいきなりその袖を捉えた。
「何処へ行くんだい。」
「一寸|階下《した》のお客をみてくるのよ。待っていらっしゃい、じきに来るから。」
そして彼女はにっこり笑ってみせた。然し彼は袖を離さなかった。
「困るわねえ。……ほんとに忙しいのよ。」
「嘘云うない。他に女中達がいるじゃないか。もうこの手は離さない。……居てくれよ、頼むから。惚れられたと思やいいじゃないか」
彼は駄々をこねるように身を揺っていたが、急に眼の底が熱くなってきて、卓子の上につっ伏した。
「ああ酔っちゃった。」
吐き出すように云ったのがなおいけなかった。熱っぽいものが胸の底からこみ上げてきた。
「気分でも悪いの、え?」
お清は歩み寄ってきて、彼の肩に手を置いたが、それから、無理に顔を挙げさした。彼は涙にぬれた顔をひょいと挙げて、大声に笑ってやった。
「どうしたのよ、井上さん!」
「泣いたり笑ったり……。」
ぴょんと跳ねて長椅子の上に身を落したが、後の言葉がつかえているうちに、彼は俄に真剣な気持になっていった。英子かも知れないお清とこうして戯れてることが、頭の奥に恐ろしい閃きとなって映った。眼を見据えると、お清は卓子の端につかまって立ちながら、こちらをじっと見ていた。前髪の影を受けた顔の中に、すっと通った鼻筋が白々しく澄していた。
周平は急に立ち上って云った。
「もう帰るよ。」
「あら、どうして?」
彼が何とも答えないで帽子を取ろうとすると、お清は素早くそれを取上げてしまった。
「いやよ、訳を云わなきゃ。」
「何の訳?」
じっと眼を見合したが、彼女の瞳はたじろぎもしなかった。周平は眼を伏せて歩きだした。歩きながら云った。
「今日はもう帰してくれよ。一寸気にかかることを思い出したんだ。急ぐんだ、非常に。また来るよ。その時すっかり話すから。嘘は云わない。勘定もこの次にするから、宜しくやっといてくれ。さ早く。くれなきゃ、帽子は預けとくよ。」
彼は一寸待ったが、彼女が何とも云わなかったので、そのまま扉の方へ歩み寄った。扉を開けて薄暗い廊下に出ると、彼女は後から駈け寄ってきた。
「今晩あなたは酔ってるから、真直に家へお帰んなさい、ねえ。」
何を云ってるんだと彼は思ったが、その瞬間に、彼女はつと彼の手を執って握りしめた。いやに冷たいかさかさした掌《てのひら》だったが、それが却って彼の心に強い響きを与えた。彼は涙ぐましい心地になって、その手を強く握り返した。そして、差出された帽子を引ったくって、飛ぶように階段を下りていった。
外の寒い風に吹かれると、足がふらふらしてるわりに、頭がはっきり冴えてきた。いつのまにか深みへ陥っている自分自身が、驚いて顧みられた。彼は長い間街路をさまよい歩きながら、しまいには、お清から遠ざかろうと思ったり、お清にぶつかってみようと思ったりした。
然しそれは二つながら実行出来ない決心だった。
彼は今迄に何度か、お清から遠ざかろうと決心したのだった。けれどそれが出来なかった。お清と英子とは同一人であるかも知れないという疑いは、彼のうちに根を下して、一種の幻覚に似た形を取っていた。絶えずそれが頭につきまとった。隆吉を相手にしてる時、保子の前に淋しい心を投げ出してる時、彼はふとお清のことを思い出して、慌てて立上ることが多かった。保子からそれとなく様子を窺われてることを知り、今にも大きな打撃がやってくることを予期しながらも、やはりお清の方へ惹かされていった。
それでも彼は、お清と顔を合せると、じかにぶつかってゆくことが出来なかった。彼女が果して英子と同一人であるかないか、ぶつかった後に明かとなった場合には、その何れの結果も恐ろしい気がした。英子だったら……。英子でなかったら……。どちらを考えても、後に残される痛ましい自分自身の姿が見えてきた。お清に心惹かされてるのは、もはや単なる好奇心からばかりではないことを、彼ははっきり意識していた。お清が英子であるかどうか分らないうちは、その意識をごまかすことが出来た。然しそれが明かに分った場合には、もはやごまかしは許されなかった。そして英子である彼女を愛することは勿論、英子でない彼女を愛することも、保子の幻を前にして、堪らないことだった。彼は吉川の運命をまざまざと頭に浮べた。
然し今更後へは戻れなかった。そしては酒を飲んだ。酒を飲むと、凡てが一色の悲壮なものに塗りつぶされた。
三十四
そういう周平は、蓬莱亭で時々竹内と出逢うのを、殆んど気にも留めなかった。
一度は、二三の友人と階下に居る時、竹内が上から階段を下りてきた。次には、蓬莱亭の前で出逢った。周平は誘われるのを断って、中にはいらないで通り過ぎた。また次には、周平は三階から下りてきて、階下の室を通りぬけ、表へ出ようとして扉を引開くる途端に、階段の蔭から竹内が出て来るのを、ちらと認めたように思った。
所が或る晩、周平が三階の室で可なり酔っ払って、一人ぼんやりしている時、よろめくような足音が階段を上ってきて、廊下に立ち止った。扉が一寸開いてまた閉められた。廊下が薄暗いので、周平はその瞬間に外の者の姿を見て取ることが出来なかった。そこへ、誰かが慌しく階段を上ってきた。
「おはいりなさいよ、知らない人じゃないから。」と云ったのはお清の声だった。
それに答える低い声がして、二人は向うの室にはいった。
周平は変な気がした、聞くともなく耳を傾けていると、暫く低い話声が続いた後に、あははと高い笑声がした。竹内の声そっくりだった。はっと思った時、「知らないわよ、いい加減になさい、」という声と共に、お清は向うの室から出て、階段を下りていった。
それが変に周平の気にかかった。やがてお清らしい足音が、料理や酒を運んできたらしく、階段を上って向うの室にはいると、周平は我知らず立ち上ったが、また思い直して長椅子に身を落した。それでも、知らず識らず向うの話声に耳を澄した。然し何にも聞き取れなかった。
彼は苛ら苛らしてきた。これまで向うの室に知らない客が来ることはあったが、いつも彼の注意を惹かないほど高い話声や笑声のみだった。所がその晩だけは全く調子が変っていた。彼は先刻のお清の言葉と竹内らしい笑声とを思い出した。それから俄に、これまでの竹内の変な態度が頭に浮んできた。
竹内に違いない、そう思うと彼は一種の不安と憤りとを禁じ得なかった。竹内が自分を避けてる理由がはっと胸に響いた。向うがそのつもりならこちらは反対に出てやれという気になった。そして彼はお清が来るのを待った。然し彼女はなかなかやって来なかった。彼は更にじりじりしてきた。残りの料理と酒とをみんな平《たいら》げてしまった。それから長椅子の上に寝そべった。頭がかっとしてきた。
彼はお清がそっとはいって来たのも知らなかった。「あら、寝てるの、」という声に飛び起きると、彼女はすぐ彼の前に立っていた。
「まあここに坐れよ。」と彼は怒鳴りつけるように云った。
お清は黙って椅子に掛けたが、何だか興奮してる様子だった。身体を固くして、口をきっと結んでいた。小さな唇に小皺が寄っていた。周平は一寸気勢を挫かれた気持で、低く尋ねてみた。
「向うに来てるのは竹内だろう。」
お清は何とも答えないで、ちらと彼の眼を見返した。
「おい、竹内だろう。」と周平はまた尋ねた。
「ええ、そうよ。」
事もなげに答えておいて、お清は急に彼の方へ向き直った。
「あなた、竹内さんと喧嘩でもしたの。」
「なぜ?」
「だって、いやに気にしてるじゃないの。
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