打明けてもいい――村田と二人きりで、ゆっくりお清に逢ってみたいからだった。然し今その途中に在ると、お清にゆっくり逢いたいというのは、単なる好奇心からばかりではないような気がした。お清の身の上に種々な想像をめぐらしながら、いつのまにか頭の中に浮べてる彼女の姿に対して、彼は淡い胸の震えを覚えた。それは、保子に対する気持と、同じ種類でありながら異った調子のものだった。恋でも愛でもないけれど、それに似た怪しい魅惑で、一方が澄みきってるのに対して、これは底の方に熱っぽい濁りを持っていた。
 彼は暗い所へでも陥ってゆくような気がした。と同時に、そうした自分自身を甘やかすような気分も動いてきた。陥るなら陥るがよい、その後で跳出してやれ、と後は淋しい心の中で自ら云った。
 蓬莱亭の前に立って、内部に白い布《きれ》を垂れてる硝子戸の隙間から、そっと中の様子を窺うと、五、六人の客が声高に談笑していたが、親しい仲間の者は来ていないらしかった。
 村田は周平の方へ一寸|目配《めくば》せをして、つと扉を押した。周平は黙って彼の後に随った。
 奥の帳場格子の向うに、どんなことがあっても没表情な顔をくずさない主婦《おかみ》さんが、ぼんやりした浅黒い顔を見せていた。村田は真直にその方へ行った。
「今日は井上君と一寸秘密な話がありますから、三階の室をかりますよ。」
「ええ。」と主婦さんは簡単な返辞をした。
 二人の姿を見て、程よい卓子に椅子を直していた女中に、村田は低く囁いた。
「今日は三階《うえ》へ行くんだ。誰が来ても知らせないでくれ給え。」
「なぜ?」
 それには答えないで、村田はさっさと広い階段を上っていった。周平はその階段に踏みかけるまでに、階下にはお清がいないことを見て取った。
 階段を上りきると、階下《した》からは想像がつかないくらい広い明るい広間に出た。真白な布をかけた卓子が規則正しく並べてあった。窓に近い卓子で、二組の客が食事をしていた。其処にもお清の姿は見えなかった。
 広間とその横の小さな室との界目から、薄暗い狭い階段が急な角度で上っていた。それを上りつくすと、五燭らしい電灯がぼんやりともってる狭い廊下に出た。左手は疊を敷いた室で、薄汚れのした絨緞の上に餉台《ちゃぶだい》が一つ置いてあった。右手は天井だけ白く塗った裸壁の洋室で、一つの長椅子と二、三脚の籐椅子とが、室の割に大き過ぎる四角な卓子をとり囲んでいた。
 村田と周平とは洋室の方にはいって、長椅子の上に身を投出した。そしてただ訳もなく眼を見合せた。
 がーんと耳鳴りがした後にひっそりとなった時のような気持だった。村田は煙草に火をつけながら云った。
「どうだい、思ったより汚い狭苦しい室だろう。」
「いや、素朴でいいじゃないか。」
 背の低い肥《ふと》った女中が、酒や料理を運んできた。
「今晩井上君と二人でゆっくり話すんだから、あちらへ行ってていいよ」と村田は云った。
 周平は、余計なことを云うと思ったが、さしとめるわけにもゆかなかった。自分の方から二人きりでゆっくりしようと云い出したことだった。然し、村田と二人でさし向っていた所で、別に面白いこともなかった。お清に逢うのが目的だったのだ。そして、そのお清はいつまでも出て来なかった。居ないのかなと考えて見ると、先刻階下にも二階にも姿の見えなかったことが、俄にはっきり思い出せた。
 その間に村田は、こんなことをしみじみと云い出していた。
「人は僕を呑気者《のんきもの》と云ってるけれど、それは皮相の観察で、実は僕は無抵抗者なんだ。然し、無抵抗者と無抵抗主義者とは違う。主義となると、其処に一種の排他的抵抗が出て来るものだ。だが僕のは真の無抵抗なんだ。そして僕は面白いことを考えついた。無抵抗な自分の頭をじっと見戍ってると[#「見戍ってると」は底本では「見戌ってると」]、丁度天気と同じような変化をしてることが分る。がらりと晴れてる時もあれば、じめじめ雨が降ってる時もある。また、晴れてるのに雲がむくむく出て来たり、曇ってるのがいつのまにかすーっと晴れたりする。それでね、僕はこれから、自分の頭の天気模様を表に取ってみようと思いついたのさ。屹度何か面白い結果が現われるに違いない。或は意外な発見があるかも知れない。そして、それには僕のような無抵抗者でなくちゃ駄目なんだ」
「じゃあ今はどうなんだい。」と周平は尋ねた。
「そうだね……夜、晴朗、とでも云うのかな。」
「それでは実際の天気と同じじゃないか。」
「いや違う。空は晴れてやしないんだろう。」
「晴れてるさ。」
 然し窓を開いて覗いてみると、外はただ真暗で、晴曇のほども分りかねた。冷やかな風が何処からともなく流れ寄ってきて、急に身体が寒くなった。
「おう寒いや。」
「だから熱いのを持って来たわ、気が利いてるでしょう。」
 引き取って云った声の方を顧みると、お清の真白い顔が入口から覗いていた。
「なあんだ君か。」と村田が云った。「喫驚しちゃったよ。持って来たら早く出せよ。」
「取りにいらっしゃい。秘密のお話だから中にはいってはいけないんでしょう。」
「そうだそうだ。葷酒《くんしゅ》以外の者は何人もこの山門《さんもん》に入る可らず。取りに行ってやる。」
 村田が立って行くと、お清は四、五歩|退《しざ》って、戸の外に出て来た村田の横をつとすりぬけ、室の中にはいり込んで、がたりと扉を閉めた。
「おい、冗談じゃない。開けろよ、早く。」
「開けないわよ。私井上さんと秘密の話があるんだから、誰もはいってはいけない。……ねえ、井上さん!」
 酒を飲んだらしい赤味のさしてる真白い顔の中から、白目がちの澄んだ眼が、周平の方をじろりと見て笑っていた。周平は口が利《き》けなかった。
 やがて村田がはいってきて、長椅子の上の周平の側に身を落すと、お清はいきなり二人の間にはいり込んで、二人の手をしかと左右の手で握った。その手が妙にばさばさ乾ききってるように、周平は感じた。
「秘密の相談て、何なの?」
 瞬きと一緒にくるりと動く眼が、周平の顔を眺め、次に村田の顔を眺めた。
「云えないから秘密なのさ。」と村田は云った。
「じゃあ私、いつまでも此処から出て行かない。」
「そいつは有難い。君に一晩中取持って貰えば本望だね。此処から出ようたってもう出さないぜ。」
「私もあなた方二人に介抱して貰えば本望だわ。出そうたって出るものですか。」
「そうくるだろうと思っていたよ。」
 長椅子の背に身をもたして、がっくり後に反らしていた頭を、彼女は俄にもたげて、村田の方をじっと見た。
「何が?」
「いやこっちのことだよ。……秘密の相談という餌でお清ちゃんを釣ったわけさ。」
「そう。私も一寸釣られてみたかったのさ。」
 語尾を村田のに真似て一寸気張ってみせたが、それからほーっと息をした。
「ああ酔った。」
「誰にそんなに酔わされたんだい。」
 彼女は何とも答えないで、くすりと笑った。そしてじっと電燈の光りを仰いだ。
「この電気は妙に薄暗いわね。」
「今にはじまったことじゃないよ。」
「そうかしら。」
 おとなしく受けておいて、彼女はまた椅子の背に頭を反らした。
 その横顔を、周平はじっと眺めた。眉根まで通ってる鼻つきが、いやに頑丈らしく下品に見えた。額から蟀谷《こめかみ》へかけた小皺が、脂を浮かして気味悪く光っていた。
 周平は眼を外らして杯を取り上げた。
「特別にお酌してあげるわ。」とお清は云った。
「特別にでなくても普通にで沢山だよ。」
「分らない人ね。」
 ぐるりと顔をねじ向けて、顎と口とでつんと澄した、その様子に、周平は突然心を惹かされた。
「おい、村田、」と彼は云った、「二人がかりでお清ちゃんを酔い潰してみようじゃないか。」
「そう、」とお清がそれを引取った、「その代りに介抱して下さるわね。」
 彼女は杯を受けて、それからなお二三杯飲んでいたが、突然何か思い出したらしく、慌てて立ち上った。
「待っていらっしゃい。今じきに来るから。」
 扉をがたりと閉めて出て行った。
「ひどい奴だね。」と村田は云った。
 それが彼女の態度のことなのか扉の閉め方なのか、周平には分らなかったので、黙って見返すと、村田はまた云った。
「初めに戻って、二人でゆっくり飲もう。」
 然し、お清が立去ってしまった後の空虚が、何となく室の中を淋しくなしていた。周平は黙って杯を手にしながら、彼女のことを考えた。
「君、お清は一体幾歳《いくつ》になるんだろう。」と周平は突然尋ねた。
「さあ、幾歳かな」と村田はどうでもいいという返辞をした。
「僕には、二十《はたち》くらいに見える時もあれば、また大変|老《ふ》けて、二十五六にも見える時があるんだが……。」
「じゃあその間の二十二三にしておけばいいじゃないか。」
 然し周平にとっては、彼女の年齢が一つの問題だった。英子と彼女と同一人だとするならば、どうしても彼女が三十歳近くでなければならなかった、隆吉という子があるのだから。と云って、彼女を三十歳か少くとも二十六七歳にするには、あまり可哀そうな気もした。顔の上半分が老けてるにも拘らず、下半分に現われてる溌溂とした若さは、単なる扮飾だけで得られるものとは思えなかった。
 二人はもう別に話をするでもなく、黙って杯の数を重ねた。
 お清がまたやって来た時、村田はふと思い出したように尋ねた。
「君は一体|幾歳《いくつ》になるんだい。井上が大変それを気にしてたぜ。」
「そう。幾歳に見えて?」
「井上の眼には、丁度だってさ。」
「丁度、嬉しいわね。」
「冗談じゃない、桁《けた》が違うんだ。」
「え?」
「桁……というんじゃないのかな。一周上《ひとまわりうえ》というのさ。」
「それじゃ三十というの。」と彼女は微笑の口を尖らしてみせた。「どうせそうなんでしょうよ。お婆さんは引込んでろって謎でしょうよ。」
 そして扉をがたりと閉めて出て行った。
 それでも、彼女は間もなくやって来た。そしてはまたすぐに出て行った。ちっとも落着いていなかった。他に気兼ねすることでもあるのかと思えるほどだった。それが周平の気分を苛ら苛らさせた。彼女が居ない淋しさに浸ることも出来なければ、彼女が居るぱっとした明るさに和することも出来なかった。蔭と日向とが交代にやってくるようなちぐはぐな気持のうちに、酒がいやに頭へばかり上ってきた。そして足先からぞくぞく冷《ひ》えてきた。
 村田は饒舌り疲れたのか、長椅子の上に身を反らせて、天井の電燈をまじまじと眺めていた。
「もう帰ろうか。」と周平は云った。
「うむ。」
 村田はすぐに応じたが、やはり身を動かさなかった。暫くして云った。
「何だか今晩は変につまらない晩だね。」
 それが、こんな処へ誘われてきた不満の声のように周平には聞えたが、何とも返辞をしたくなかった。
 呼鈴の音でやって来たのは最初の女中だったが、勘定書を持って来たのはお清だった。
「もう帰るの。」
「ああ、」と村田は答えた、「つまらないから他《ほか》で飲み直すんだ。」
「どうぞ御勝手に。」とお清は云い捨てておいて、周平の方へ向いた。「こんどゆっくりいらっしゃいよ。一人でね。」
 耳許で俄に低く囁かれた最後の一句が周平の耳にまだ響いている時、村田は振り返って大声に云った。
「おいおい、人前で耳打ちをするって奴があるか。」
「そう、御免なさい。」
 と答えて彼女が、じろりと村田の方へ意味ありげな眼付を投げたのを、周平は顔が赤くなるのを感じながらも認めて、それが変に気にかかった。そしては却って、彼女の方へ心が惹かされていった。

     三十三

 周平は次第に、蓬莱亭へ足繁く通うようになった。金がない時には友人と一緒に、金がある時には一人で行った。最初一人で行った時には、実際酔っ払ってもいたし、酔いの中に自ら自分をつき放してもいたので、大胆に三階へ上っていって、長椅子の上に身を投げ出したまま、お清を相手に暫く無駄口を利いていたが、ふとそうした自分自身に気がさして、間もなく帰っていった。そのことが後で気分にこだわっ
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