いのだと云われた。――叔父さんが洋食を食べに連れてってやると云ったけれど、いつまでも連れてゆかない。――家にばかり居ないで少し外で遊んで来るようにと、叔母さんに云われた。けれど、近所には厭な奴ばかりだから行く所がなくて、悲しくなって泣いてると、叔母さんが来ていきなり抱きしめてくれた。そして、庭ででもいいから少し外で遊ぶ方が身体のためだと云われた。――叔父さんが酒を飲んで、も少し飲みたいというのを、叔母さんが止めた。叔父さんは恐い顔をして怒鳴《どな》りつけた。叔母さんも高い声で云い争った。そして喧嘩になった。がすぐその後で、二人共笑い出してしまった。何のことやら分らなかった。――叔父さんが二階で昼寝してるのを、叔母さんから起しにやられた。いくら起しても眼を覚さない。仕方がないから布団をめくってやった。すると叔父さんは急に起き上って、じっと睥みつけた。それきり何とも云われなかったけれど、あんな恐いことはなかった。――叔父さんが非常に機嫌がよかった。背中に負《おん》ぶしてやろうと云われた。愚図々々してると、なぜ負《おぶ》さらないんだと叱られた。それで背中に乗ったが、何だか身体が硬ばってしまった。叔父さんは庭の中を歩き廻った。それを叔母さんがじっと見ていたが、負《おぶ》う方も負《おぶ》さる方もどちらも下手だと云った。口惜しかったから、背中の上で飛びはねてやった。するとすぐに縁側に下された。今度は私が負《おん》ぶしてみようと云って、叔母さんが負《おぶ》ってくれた。一所懸命にその背中にしがみついてると、又すぐに下された。変に叔父さんも叔母さんも黙ってしまった。どうしていいのか分らなかったから、いきなり逃げ出してやった。――叔父さんが学校のない日は、叔父さんも叔母さんも寝坊するので、一人で早く起きなけりゃならない。つまらないから、女中が何度も起しに来るのを知らん顔をしていた。すると、もう起きなければ学校に後れるよと云って、叔母さんが起き上ってくれた。それを見て飛び起きてやった。叔母さんからじっと顔を見られたので、叱られるのかと思ってると、何とも云われなかった。……
 そういうことを隆吉は、周平の顔を見い見い話してきかした。気兼ねしながらも話すのを楽しみにしてるらしかった。
 周平は簡単な返辞きりしなかった。隆吉を憎んでいいか憐んでいいか愛していいか分らない気持がした。その気持がしまいには陰鬱な色に塗られた。そして自分の身の上にも反射してきた。二人相並んだ孤児! というように彼の頭に映じた。
 彼は隆吉をしみじみと見戍った。隆吉はその眼付に縋りついてきた。
「僕ね、大きくなったら画家《えかき》になるよ。」
 突然のことだったので、周平は眼を見張った。
「だって、隆ちゃんは絵が嫌いだったろう?」と彼は尋ねた。
「うむ、好きだよ。」
「どうして好きになったの。」
 隆吉は暫く黙っていたが、独語のようにして云った。
「展覧会にあるような絵が描いてみたいなあ。」
「もう展覧会に行ったの。」
「叔父さんと叔母さんとだけで、僕は行かなかったけれど、新聞にその写真が幾つも出てたよ。」
「そして、あんな絵が描いてみたいって云うの。」
 隆吉は何とも答えないで眼をぱちくりさした。暫くたってから低い声で云った。
「僕ね、お父《とう》さんの絵を描くつもりだよ」
 周平はその顔を見つめた。そして、掌の中の小鳥を虐《いじ》めるような一種残忍な興味で尋ねてみた。
「お母《かあ》さんは?」
 隆吉は口をつんと尖らして、凸額《おでこ》の下に上目勝に眼を見据えた。
「お母さんは悪い人だって」と彼は云った。「お母さんのことを云っちゃいけないって、お祖母《ばあ》さんが云ったよ。けれど僕は、お母さんの絵も描いてやるんだ。構やしない。お母さんはそんな悪い人じゃないよ、屹度。僕に悪いことが起ったら、お母さんが助けに来てくれるような気がするよ。お父さんは死んだんだけれど、お母さんは生きてるんだって。本当? そんなら僕探し出してやるよ」
 怒ってるのか泣いてるのか分らないような調子だった。云ってしまってからも軽く身体を揺っていたが、すぐにそれをぴたりと止して、不快らしい皺を眉根に寄せ、何やら考え込んでしまった。
「どうして探し出すの」と周平は追求した。
「分らない。大きくなってからだよ。」
「お母さんの顔を覚えてるの?」
「覚えてない。」
 隆吉は吐き出すようにその答えを投げつけてから、此度は本当に怒ったらしかった。口をきっと結んで眼を伏せながら、いつまでも黙っていた。

 その気持が、周平にも感染してきた。誰にともない暗い憤りを身内に覚えた。
「隆ちゃん、」と彼は云った、「お父さんはどうして死んだか知ってる?」

 隆吉は黙って彼の顔を見返した。問いの意味が分らないらしかった。
「お父さんが死んだ時のことを覚えてるの」と彼は云いなおした。
「よく覚えてない。」と隆吉は答えた。「頭の痛気で死んだんだって。本当?」
 周平はただ首肯《うなず》いた。
「井上さんはお父さんのことをよく知ってるの。知ってたら僕に聞かしてくれない? 誰も聞かしてくれる者がないんだもの。叔母さんに尋ねると、恐い眼付をするんだよ。」
 周平はぎくりとした。保子の言葉が思い出された。黙り込んでじっとしてると、隆吉がそっと覗き込んできた。そして、もういつのまにか片頬に軽い笑靨を浮べていた。周平はそれを見て、変にはぐらかされた気持になった。子供を相手に何をしてるんだ! と自ら浴せかけた。もうどうでもいいことだ、と自ら云った。
 然し、隆吉の祖母の定子に偶然の機会で紹介せられた時は、さすがに胸の震えを禁ずることが出来なかった。

     二十八

 それは全く偶然の機会だった。
 或る日周平がやって行くと、女中が慌しく玄関に出て来た。そして、茶の間の方へ彼を導いた。何だか様子が変だったので彼は尋ねた。
「どうしたんだい、今日は。」
「お客様ですよ。」
「そう。じゃあ隆ちゃんは?」
「坊ちゃまもお座敷の方ですが、一寸お待ちなさいよ、聞いてきますから。」
 周平は一人茶の間にぼんやり待たせられた。暫くすると女中が戻って来た。
「すぐこちらへお出で下さいって。」
「僕に?」
「ええ。坊ちゃまのお祖母様《ばあさま》がいらっしゃるんですよ。」
 周平は立上ったが、一寸躊躇せられた。それでも女中がずんずん向うへ行くので、その後についていった。襖のこちらで足を止めると、「おはいりなさい。」と云う保子の声がした。彼はつかつかと中にはいって、誰にともなくお辞儀をした。
 保子と向合って、米琉絣の対《つい》の羽織と着物とをつけた六十足らずの、上品なお婆さんが坐っていた。
「井上さん、」と保子は云った。「この方が隆吉のお祖母さんですよ。」
 周平が何とか挨拶をしようと思ってるまに、向うから先を越された。
「隆吉の祖母の定子《さだこ》でございます。隆吉が始終お世話になっていますそうで、一度お目にかかりたいと思っておりましたが、自由にならない身でございますもので……。」
 周平はただ低くお辞儀をした。言葉の調子や様子などからいい印象を受けた。それでも、何とか云おうとしたがその言葉が喉につかえて出なかった。横の方に黙って坐ってる隆吉へ眼をやると、隆吉は微笑みながら彼を見返した。
「毎週わざわざ来て頂くのは大変でございますね。」と定子は云った。
「いいえ、どうせ遊んでるのですから。」
 そして周平は次の言葉を待った。しかし定子はもう何とも云わなかった。保子から話しかけられて、それに簡単な受け答えをしていた。周平はその顔をそっと窺った。染めたらしい黒い髪を小さく後ろへ取上げて、広い額を見せていた。少し凹んだ小さな眼、真直な鼻、長い※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]、それらが隆吉によく似ていた。小鼻のわきから頬へかけた筋のために、顴骨が少し高まって見えたが、それも額と※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]とによく調和して、却ってしっかりした上品な趣を添えていた。そういう顔立を彼女は少しもくずさずに、微笑さえも殆んど浮べないで、保子へ短い言葉を返していた。保子一人でいろんなことを話した。周平と隆吉とは、置き忘れられたように黙って坐っていた。
 暫くすると、定子はもう帰らなければならないと云った。保子はしきりに止めたけれど、家の都合でどうにもならないとのことだった。
「では一寸お待ち下さい。」と保子は云って、向うへ座を立って行った。
 周平は定子と向き合って残された。
 定子は周平の方を向いて、まじまじと彼の顔を眺めた。彼は次第に顔を伏せてしまった。
「とうからお目にかかりたいと思っておりましたけれど、自由に出られないものでございますから……。」と彼女は云った。「こちらへ伺いますのも、一寸した隙を見て、月に一度か二度のことでございますよ。それでもあなたのことを蔭ながらお聞きしては、心強く存じておりました。隆吉は御存じの通りの不仕合せな身の上でございますから、くれぐれもお頼み致します。」
 そういう風に云われると、周平は一方では恐縮しながらも、一方では前からの知人ででもあるような親しみを覚えてきた。
「隆ちゃん、」と定子は向うに黙っている隆吉を呼びかけた、「私にお砂糖湯を一杯貰ってきて下さいね、喉が少し悪いから。」
 隆吉はすぐに立っていった。その間に定子は周平の方へ膝を進めて、口早に小声で云った。
「あなたにお詑びしたいことがあって、気にかかっておりましたが、丁度お目にかかって宜しゅうございました。いつぞや、隆吉の父の写真を見たいと仰しゃったそうでございますが、隆吉の前では両親のことは一切口にしないようにと、横田さんとお約束してあるものでございますから……それに、横田さんへも一寸気兼ねなことがありまして、無いと云ってお断りしましたが、どうぞ悪く思わないで下さいませ。またいつかお目にかける時もございましょうから……。」
「いいえ、」と周平はその言葉を遮った。「御事情は私も存じております。」
 定子は彼の眼の中を覗き込んだ。そしてやがて云った。
「いろいろお話申したいこともございますけれど……。」
 そこへ、女中が砂糖湯を持って来たので、定子は口を噤んでしまった。そして彼女がその湯呑を取上げていると、保子と隆吉とが出て来た。保子は手に小さな風呂敷包みを持っていた。それを定子の前に差置くと、定子は黙って受取った。
「それでは、横田さんへどうぞ宜しく仰しゃって下さい。」と定子は云った。
 彼女が立ち上って帰りかけると、周平は妙に心残りがして、皆の後へついて玄関まで見送った。隆吉が電車まで送ってゆくことになった。
 二人が門の外に見えなくなってからも、周平はまだ其処にぼんやり佇んでいた。
「どうしたの、井上さん。」
 周平は初めて我に返ったような心地で振り向いた。保子が彼の方を覗き込んでいた。彼の眼にじっと眼を見据えながら、口元で微笑みかけた。
「いい人でしょう?」
「ええ。」と周平は答えた。
「すっかり好きになったっていう様子ね。」
 周平は何と云っていいか分らないで、ただ苦笑を洩した。そして、保子の後について座敷へ戻った。
「あなたは隆吉のお祖母さんに逢って嬉しかったでしょう。」
 座につくとすぐに、保子はそういう風に尋ねかけてきた。
「なぜです?」と周平は反問した。
「なぜって、ただそんな気が私にはするのよ。」
 揶揄するような眼が小賢《こざか》しく閃いた。かと思うと、彼女は急に真面目な調子に変った。
「あなたはこの頃大変隆吉と仲がいいようね。何を二人で長い間話してるの。」
「取りとめもないことをして遊んでるのです。」と周平は答えた。「大人《おとな》よりも子供を相手にしてる方が面白いと、そんな気特にこの頃なってきました。」
「それだけ?」
 何がそれだけ? なのか彼には分らなかった。じっと見返した眼付でその意味を尋ねた。彼女はそれを構わず先へ云い続けた。
「あなたはこの頃変に捨鉢な気持になってやしなくって。」
 その言葉はじかに彼の胸を
前へ 次へ
全30ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング