刺した。然し彼は真剣な応対をするのが恐ろしかった。強いて空嘯いてみた。
「さあどうですか。」
「それでいいと思ってるの。」
「身を捨ててこそ何とかいうこともありますから……。」
「井上さん!」
保子はそう云って屹《きっ》となったが、唇をかすかに震わしたまま黙ってしまった。視線をちらと乱して、しまいにはそれを膝の上に落した。
「私は、」と周平は云った、「自分のことはよく分ってるつもりです。何にもごまかしてやしません。そして、お約束を立派に守ってゆく……守ってゆけるつもりでいます。」
「約束を守りさえすれば、他のことはどうでもいいというんですか。」
まるで怒鳴りつけるような調子だった。彼には何で彼女が苛立ってるのか見当がつかなかった。黙ってると、彼女はまた云った。
「いつまでも過ぎ去ったことにこだわっていて、表面《うわべ》だけ平気な顔をしているのは、自分で自分をごまかしてるのと同じだわ。」
周平は驚いて彼女の顔を見返した。――そういうごまかし方をしてるのは彼女の方ではなかったか。表面だけ平気な顔をして、彼を方々へ引張り廻しながら、内心では変に苛立ったり冷淡を装ったりするのは、自らごまかしてるのではないか。今日だって彼女の方から変に絡んできたのではないか。――彼女は少し歪めがちに唇をきっと結んで、眉根に小さな皺を寄せている。すっと刷いた眉がいつもより殊に美しい……と思う自分の心に周平は自ら慴えた。
「もう何にも云わないで下さい。これから真面目な途を進みますから。」と彼は誓った。
「そう。」と保子は気の無さそうな返辞をして、何やら考え込んでしまった。
その意外な変化に、周平はまた驚かされた。そして次の瞬間には、頬の筋肉が硬ばって泣き顔になりそうなのを、じっと押し堪えた。頭の中がしいんと静まり返った。
隆吉が戻ってくると、彼は気分が悪いと断って、逃げるように辞し去った。じかに迫ってくる露《あらわ》な保子の眼付と、疑問を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ変に鋭い隆吉の眼付とに、彼は更に脅かされた。
二十九
西の空に屯《たむろ》してる雲のために華かなるべき残照が遮られてる、ほろろ寒い佗しい秋の夕暮だった。周平は足を早めて下宿の方へ帰りかけたが、寂しいがらんとした自分の室が頭に映ると、今の苦しい心を其処へ持ち込むのが、堪えられないような気がした。金入の底に皺くちゃな五十錢紙幣が六七枚残ってるのを幸に、眼についたカフェーに寄って、ウイスキーを五六杯のんだ。髪を長く伸ばした着流しの客が一人居るきりで、電燈がついたばかりの室の中は静かだった。女給仕と何かひそひそ話し合ってる客の方に背中を向けて、彼は壁の面をじっと見つめた。
それが、彼の気持へぴたりときた。
ぶつかることがつきぬけることのように思っていた彼は、ぶつかってみて初めて、つきぬけられない壁があるのを知った。保子と隆吉との間にまごまごしてる自分は、やけに頭を壁にぶっつけてるのと同じだった。而も彼は、未だに保子を恋してるのかどうか自ら分らなくなっていた。
酒に痲痺した頭で考えると、凡てが渦を巻いて入り乱れ、その渦が壁の中にすーっと吸い込まれて、じっと壁に面してる自分の姿のみが残った。それがしいんと静まり返った。息苦しくて恐ろしかった。自分の心が何処まで転々してゆくか不安だった。
彼はカフェーを飛び出して、夜になった街路を長い間歩き廻った。闇黒のうちに点々と浮出してる街灯の光りと、酒の酔からくる悲壮な気持とが、凡てを夢のような惑わしのうちに包んでくれた。そして彼は、ただ現在の生をのみ慈《いつく》しむ涙ぐましい心を懐いて、袷の肌にも寒いほどの夜更けに、火種さえない下宿の四疊半へ、ぼんやり帰っていった。薄い布団にくるまって寝るのまでが、却て天の恵であるような気がした。
然し翌朝になって、鋭くはあるが妙に弱々しい日の光りで、自分の姿がまざまざと照らし出されると、それが堪らなく淋しい感じがした。そして次の月曜が来る頃までには、自分でどうにも出来ない捨鉢な気持に陥っていた。それを、保子は平然として身近く引きつけて離さなかった。
彼の頭には時々理智の閃きが過《よぎ》った。――保子からいい加減に弄《もてあそ》ばれてるのではないかしら? ――保子は、敢て多少の危険を冒してまで、自分を吉川の轍から救おうとしてるのではないかしら? ――或は、保子自身も自分と同じ心の苦闘をしてるのではないかしら?
そして右の仮定は、初めの二つが余りに苦々《にがにが》しいものであると共に、後の一つは余りに自惚れすぎた胸糞のわるいものだった。彼はその間の去就に迷った。さりとて、保子と顔を合してみると、その点を突き込んでゆく勇気はなかった。
彼は隆吉の方へ淋しい心を持っていった。隆吉はその懐へ飛び込んできて、父母のことで彼の急所をつっ突いた。彼の心は更に乱れた。それが保子へ反映して、彼女の苛立ちとなるのだった。
彼はどうしていいか分らない自分自身を見出した。そしては次第に、酒杯のうちに身を浸していった。
三十
諸方のカフェーへ出入するようになってから、周平の身の廻りは益々淋しくなっていった。薄っぺらな蒲団、二三枚の着物、セルの袴、七八冊のノート、粗末な古机、前年から持ち越しのソフト帽、などが彼の所有の全部だった。柳行李まで売り払った。大学の制服も質屋の蔵に納まったきりだった。そして、当座の必要品だけのがらんとした室に自分を見出して、彼は半ば自暴自棄な悲壮な感じに打たれた。
そういう中にあって、彼は内心の二つの矜《ほこ》りをあくまでも把持していった。――一つは、保子の好意を濫用しないことだった。彼は如何に困っても、彼女から決して金を借りなかった。月々渡されるだけを黙って受取るきりで、それ以上の物質的補助を仰ぐことは、自分の心をも彼女の心をも涜すことのように思われた。それがどんなに苦しくとも、やはり、やはり、彼女を心のうちに清く懐いていたかった。然し、何か奇蹟でも起らない限りは、それはどうにもならないことではあった。――他の一つは、「労働組合と労働者」の飜訳を粗雑にしないことだった。金のために濫訳を事とするのは、自分の精神を堕落させることのように思われた。然しながら、訳筆は遅々《ちち》として進まなかった。不案内な内容をひねくれた文章で書いてある上に、少しも気乗りがしなかった。悲壮な心に痛快な響きを与える文句が所々に出て来ないでもなかったが、彼はその思想を研究してみるだけの余裕がなかった。倦怠の方が先にたった。そして、月に二三十枚の原稿を野村の所へ届けて、渡される僅かな金で満足していた。大変立派な訳だと向うの人が喜んでいた、そういう野村の言葉だけがせめてもの慰藉だった。
斯くて、彼の二つの矜《ほこ》りも、単なる矜りの外には出なかった。彼の生活は益々困難になっていった。横田の家から貰う報酬と飜訳の僅かな稿料とでは、どうにも支えようがなかった。水谷からは、其後思い出したように三十円送ってきたきりで、ふっつりと便りもないそうだった。
下宿の払いもたまった。方々のカフェーへもちょいちょい借りが出来た。それでも彼は、知らず識らず酒杯の方へ引きつけられていった。金があると気が大きくなった。金がなければ野村や其他の知人から五円十円と借り歩いた。無一文の時には、友人の誰かが何とかしてくれた。
彼は次第に、村田や其他の友人と近しくなっていった。あらゆる点で便宜だった。金の融通もついたし、面白くもあった。横田の書斎での真面目くさった彼等は厭だったが、酒杯の間にはめを外した彼等は愉快だった。彼等の方でも新米《しんまい》の周平を面白半分に引廻した。
「おい、井上、今晩探険に出かけないか。」
がやがやした騒ぎが静まると、彼等は興味の種を探すようにしてそう呼びかけた。
周平はどんよりした眼を見据えて黙っていた。
「井上は駄目さ。」と村田が云った。「北極も南極も嫌いで、なまぬるい温帯が好きなんだから。熱帯ならなおいいかも知れないが、そんなのは一寸手が届かない形でね。」
温帯というのは、素人《しろうと》とも玄人《くろうと》ともつかない女給仕《ウェートレス》連中のことだった。
そして実際彼女等のうちには、特殊な意味で深く周平の心を惹きつける者が一人居た。
三十一
電車道から奥へはいってる可なり広い横町が、他の裏通りと直角に交叉して斜左へ曲ってる、その角の所に、蓬莱亭という緑色に塗られた洋館があった。階下がカフェーになっていて、二階がレストーランだった。その上に、後から建て増した狭い三階がついていて、表からは塔のように見えていた。――その家に、お清《きよ》という女中が居た。
背の高い痩せた女だった。取りたてていうほどの容姿《きりょう》ではなかったが、一寸印象を与える顔立だった。顔の下半分が可愛かった。少し尖り気味の頤に終ってる頬の線が、強いて結んだような小さい口の横で、ぽつりと肉の膨らみを見せて、甘ったるい言葉つきをしそうな若々しさがあった。にも拘らず、顔の上半分が妙に老けていて、骨っぽい額に曇りを帯び、蟀谷《こめかみ》の皮膚がゆるんで皺を寄せていた。鼻と眼とに特長があった。さほど高くない鼻だったが、円みを持った眉根まですっと通っていた。黒目の小さな二重眼瞼《ふたえまぶた》の眼が絶えず敏活に働いて、捉え難い閃きを放っていた。
そういう彼女の顔立をいつのまに覚えてしまったか、周平は自分でも知らなかった。彼や彼の仲間は、そのカフェーへ度々行きはしなかった。二階の料理を食べに来る客が可なりあったし、よく三階へ上ってゆく常連もあったので、階下の方は自然と閑却されがちで、多少不愉快だった。カフェー専門の心易い家で騒ぐ方が、よほど面白かった。けれど……。
或る時、周平は二三の友人と共に、竹内から其処へまた引張ってゆかれた。竹内は酔っ払っていた。それでも飲み直した。「おい酒だ。」と竹内は叫んで、空になった桜正宗の二合瓶を打ち振った。それを女中共は笑いながら向うから眺めていて、更に取合わなかった。そこへ、二階からお清が下りてきた。竹内はその方へ瓶を振ってみせた。お清は階段の下に一寸立ち止って、じっとこちらを眺めたが、黙ったまま首を振った。その時の彼女の眼付が、保子そっくりだった。と周平が思ったのは瞬間で、彼女はそっと歩み寄ってきて竹内に云った。
「あなたはもうお止しなさい、酔うと癖が悪くていけないから。他の方には差上げるわ。」そして彼女は周平の方をじっと見た。「あなたはいくら飲んでも大丈夫らしいわね。」
周平はその調子に変な気がした。然し彼が更に驚いたのは、竹内がお清と非常に懇意らしいことと、皆がそれを別に怪しんでもいないらしいことであった。
竹内はどちらかというと、周平や村田などの仲間ではなかった。勿論、彼等と交際はしていたし、水曜日の横田の書斎へも二三度顔を出したことはあったが、学校を途中で止して、文士連中の臀にばかりくっついて歩いていたので、自然と彼の生活はその大部分が、彼等の視野の外にはみ出していた。いつもこてこてと髪をなでつけて、金口《きんぐち》の煙草を吹かしていた。
周平は竹内とお清との間について、我にもない一種の反感の念から、一寸好奇心をそそられた。蓬莱亭から出て帰り途で、彼は竹内に尋ねた。
「君はあの家へ屡々行くんですか。」
「なぜ?」
「だいぶ女中達と懇意なようだから。」
竹内が何か云おうとしてるまに、他の者がくすりと笑った。それで竹内はあははと大声に笑い出した。
周平は変にすっぽかされた気持になった。
やがて竹内は、吸いさしの煙草を強く地面に抛りつけて、ぱっと散る火の粉を見やりながら云った。
「懇意はよかったな。何とかで……虐待されて懇意かな、下手な川柳にでもありそうだ。」そして彼は急に周平の方を向いた。「君は又いやに水を向けられてたじゃないか……あのお清にさ。だがあんなのは止し給え。女中頭って格で威張りくさ
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