退屈だったろうね。」
「いいえ。」
 次に何か云おうとした時、彼は頬の筋肉がぴくぴく震えるのを覚えた。見えない位に下唇を噛んで、気持を捨鉢な方へ転換して、軽く息をついた。
「あなたに見せたいものがあるのよ。」と保子は云った。「何だかあててごらんなさい。……まあ当りっこはないけれど。」
 少しの曇りをも帯びない露《あらわ》な眼付が、彼の方を覗き込んでいた。
「だし……」ぬけに、と云おうとして彼は言葉を途切らした。横田の前に彼女からの葉書のことを隠すべきか云うべきかを迷った。咄嗟に、そんなことはどうでもいいと考えた。そして云い直した。
「だって、当らないものを当てさせるってことがあるものですか。」
「君、一寸これを見てみ給え。」と横田が声をかけた。
 周平は縁側に出てその方を見た。横田が覗いてる蓮鉢の中に何がはいってるのか見えなかった。庭下駄をつっかけて下りていった。
「あ!」と彼は声を立てた。
 蓮鉢の中には、拇指二倍大位の鰻が十四五匹うようよしていた。
 それは、横田が田舎から持って来た土産だった。小さなバケツの中に藻を一杯つめ、軽く水を浸して、その中に入れて来たのだそうである。五六時間の旅をしたのに、水に入れてやるとまだ元気にしていたとか。
「鰻というものは面白いものだよ、僕は大好きさ。」と横田は云った。「産卵期になると海へ下って、何十尋という深い底へもぐり、其処で卵を産むものなんだ。その孵化《かえ》った奴が鉛筆位の大きさになると、群をなして川を溯るんだよ。面白いじゃないか。」
「本当ですか。入口のない沼やなんかにも鰻の子が居るんですがね。」
「それこそ山の芋が鰻に化けた奴なんだろうよ。」と云って、横田はまた蓮鉢の中を覗き込んだ。「見事な鰻だろう、君。これを君に御馳走しようと思って待ってた所なんだ。」
 周平はそれを辞退するわけにゆかないような気がした。
 鰻はすぐに、近所の魚屋《さかなや》の手で割かれた。それを保子と女中とで、避暑地から覚えてきた通りにして焼いた。金網の上でじりじり焼かれる匂いが、座敷の方まで漂ってきた。庭の蓮鉢にはまだ、半数ばかりが二三日の余命を残されていた。
「何だか残酷ですね。」と周平は云った。
「然しね、」と横田は答えた、「蒲焼になったのを見ると、生きてた時とは全く別なものという感じしかしないよ。魚《さかな》でも野菜でもそうだが、料理はそのものに対する感じを、本質的に変化させるようだね。」
 実際、やがて食膳に上せられた蒲焼には、生きてた時の鰻の感じは殆んど残っていなかった。周平は変な気がした。変だといえば、横田や保子や隆吉などに対しても、変な気がしてきた。先刻まであんなに苦しんできた問題が、いつのまにか底の方へ隠れて、平和な晩餐の気が座を支配していた。横田はちびりちびり杯をなめていた。保子は火にほてった顔を輝かしていた。隆吉は旨《うま》そうに蒲焼をしゃぶっていた。
 周平は黙って杯の数を重ねた。
「井上さんは、」と保子が云った、「飲めないような顔をして随分飲めるのね。」
「飲めないような顔って、どんな顔なんです。」と周平は云った。
「あなたみたいな顔。鏡でみてごらんなさい。」
 周平は突然不快を覚えた。彼は自分の顔立の欠点を知っていた――眉と眼との間が迫り、鼻がわりに長く、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が短かった。それを今保子から軽蔑されたような気がした。何とか云い返してやりたく思ってると、横田が口を開いた。
「では、僕の顔はどんな顔なんだい。」
「銅像みたいですよ。酒なんかぶっかけても当分はげそうにないわ。」
「そんなに黒くなったのかな。」
「ええ、真黒よ。ねえ、井上さん。」
 微笑んだ唇から白い歯を覗かして、軽く首を傾《かし》げてる彼女の姿を、周平はちらりと見やった。睫毛の影を宿した濡いのある眼が、彼の心を囚えた。彼は額が汗ばむのを覚えた。すると、俄に顔が赤くほてってるのを知った。彼女が云い出したのは、顔の恰好ではなくて色のことらしかった。それでも反抗的に云った。
「顔の批評は止しましょうよ。生れつきで自分でどうにも出来ないことだから。」
「これはいいや」と横田が応じた。「全く顔立は自分でどうにも出来ない。」
 保子は一寸腑に落ちないような眼付をしたが、それから俄に笑い出した。
「酒を飲む人に赤鬼と青鬼とあるんですって。あなたは飲むとなお黒くなるから、まあ黒鬼ね。井上さんはすぐに赤くなるから赤鬼。私が青鬼になると丁度いいわね。少し飲んでみましょうか。」
「青鬼は御免だよ、後の世話が厄介だから。赤鬼の方がいい。」
「私そんなに赤くなっていますか。」と周平は云った。
「ええ真赤よ」と保子が答えた。「あなたは不思議ね、すぐに赤くなって、それからいくら飲んでも平気だから。」
 実際周平は、顔が赤くなりながら少しも酔を覚えなかった。頭の中が冴え返ってくるばかりだった。そして、室の中の光景が、硝子をでも通して眺めるように、淋しくひっそりと感ぜられて仕方がなかった。その冴えた淋しさが更に自分の方へ反射してきた。
 彼はいい加減に食事を済して縁側に出た。星も見えない魔物のような夜だった。眼をつぶって暫くじっとしてると――隆吉がやって来た。彼はいきなりそれを捉えて、膝の上に抱いてやった。静かな涙が出て来た。

     二十六

 頭の中で考えめぐらしたことが、実際に当っては如何に無力なものであるかを、周平は知った。進むか退くかの問題に於て、自分の態度を定める問題に於て、その時々に考え決意したことは、実は、その時々の気分に過ぎなかった。気分が異るに随って、考えもすぐに変っていった。その間に、事実はぐいぐい進んでゆく、凡てを引きずって進んでゆく。そして何処まで進もうとするのか?
 周平は、考えると恐ろしくなった。横田と保子と隆吉とを前にして、自分の地位を顧みると、このままでは済みそうになかった。而も自分の意志が無力だとすれば、どうすればいいのか。眼に見えてる破滅を避けるためには、事実の進みを多少なりと正しい方向へ導くためには、もはや、思いきってぶつかってゆくの外はなかった、先へつきぬけるの外はなかった。焦慮しながら事実の後へくっついていくのは愚の至りだった。
 彼は大胆に凡てを取り容《い》れようとした。元通り、毎週一回隆吉の質問に応じに来た。横田や保子に対して、あらゆる気兼ねを打捨てながら、平然と――図々しいほど――振舞った。そして遂には自分の心が、強い力のうちに支持されてるのか、或は捨鉢に投げ出されてるのか、彼は自ら分らなくなった。
 それを、保子は勝手に引廻した。
 隆吉の方の用が済むと、彼女は彼に遊んでいらっしゃいと云った。彼は彼女の側に腰を落着けた。取留めもない世間話をした。夕方になると、御飯を食べていらっしゃいと彼女は云った。御馳走がありますかと彼は尋ねた。その御馳走が出来る間、彼は庭をぶらついたり、寝転んで雑誌を読んだり、隆吉を相手にしたりした。横田と将棋をさすこともあった。食後横田が書斎に退いても、彼は立ち上らないことが多かった。隆吉や時には女中をも交えて、トランプをしたり、五目並べをやった。仕事を済した横田がそれに加わると、帰るのがなお後れた。漸く帰りかけると、もう遅いから泊《とま》っていらっしゃいと保子が云った。いや帰りますと彼は答えた。そんなら幾日に来て頂戴と保子は云った。その日に障子を張りかえるのだった。彼は約束通りにやって来た。女中達と一緒になって、障子の骨を洗ったり紙を張ったりした。庭の松の元気がなさそうなのを見ると、彼は自分からその青葉を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]りに来た。そのお礼に寄席へ連れて行かれた。横田と隆吉とを加えて四人で行った。帰りに彼は家の前まで送ってきた。お茶を飲んでいらっしゃいと無理に引入れられた。
 然し彼は、夜遅くなっても決して泊っていかなかった。また、横田の所へ種々な人が集まる水曜には来なかった。
「水曜日にもちといらっしゃいよ」と保子は云った。
「いやです。」と彼は答えた。
「なぜ?」
 問われてみると、なぜだか彼は自分にもはっきり分らなかった。
「なぜ厭なの。」と保子はまた尋ねてきた。
 周平は一寸考えてから答えた。
「いろんな人が来て、芸術だの思想だのというような議論が出るから厭なんです。真の芸術家は芸術を論ぜず、真の思想家は思想を論じないものです。」
「だって真面目な議論ではなくて、冗談半分の話だから、いいじゃないの。」
「なおいけません。人は真面目に何かを信じてる時、それを冗談半分に警句やなんかで片付けられるものではありません。下らない話で気を紛らせるものではありません。」
「そんなでは、うっかり口も利けないことになるのね。」
「だから私は一人で黙ってるのが好きなんです。」
 そして彼は、縁側に腰掛けたり室の中に寝転んだりして、いつまでも黙っていた。保子から時々じっと眺められるのを感じても、やはり身を動かさなかった。
「井上さん、」と保子は暫くして呼びかけた、「動物園か活動にでも行ってみませんか。」
「ええ、行ってもよござんす。どうせ何かで時間をつぶさなくちゃならないから。」
「じゃあ止すわ。」と保子は吐き出すようにして云った。
 周平は顔を挙げた。見ると、保子は冷かに顔を引緊めて、何かを内心で苛立ってるらしかった。
「なぜです。」と彼は尋ねた。
「だって、人が折角誘うのに、どうせ何かで時間をつぶすのだからって挨拶があるものですか。時間つぶしの相手なんか真平《まっぴら》よ。」
「じゃあ時間つぶしというのを取消しましょう。」
「取消したって同じよ。」
 それでも二人は、隆吉を連れて、結局出かけることになった。保子はいやに冷かな態度をしていた。周平はそれを横目で窺いながら、隆吉の方をばかり相手にした。
 彼には保子の気持が少しも分らなかった。彼を引止めたり外に誘い出したりする彼女と、何かに苛立って冷淡な素振りを見せる彼女とが、別々なものとなって彼の眼に映じた。もうどうでもいいのだと思っても、それがやはり気にかかった。
 彼女は少し身を反らせ加減にして、先に立って歩いて行った。小さくきちっと背中高に帯を結んで、上から絽縮緬の羽織をしっくりとまとい、真直に伸した手を足の運動に合して振りながら、すたすた歩いて行く痩せ形《がた》の姿は、或る近づき難い冷たさを持っていた。そして彼女は余り口を利かなかった。獣や鳥の檻の前を、一寸足を止めては先へ先へと通りすぎた。周平と隆吉とは後れがちになった。活動を見ても彼女は別に何とも云わなかった。結末近くになると、人が込まないうちにと早めに立ち上った。帰りに物を食べていくでもなかった。
 然し、家に帰りつくと、彼女は菓子や珈琲を出さした。横田をも書斎から呼んできた。見たもののことを面白そうに話した。帰るという周平を引止めて、皆で何かして遊ぼうなどと云い出した。然し周平は疲れきっていた。
「意気地なしね、男のくせに。」と彼女は云った。
 周平は自分でも訳の分らない気持になった。そして隆吉の方へ、淋しい心が向いていった。

     二十七

 周平と隆吉との間は、次第に、教える者と教えられる者とのそれでなくなっていった。隆吉の勉強にあてられてる室で、学課のことはそっちのけにして、ぽつりぽつりと短い会話を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ沈黙のうちに、永い時間を過した。
 いつも隆吉の方から口を開いた。そして一週間のことを、重に横田夫婦に関係したことを、周平に語ってきかした。
 ――叔父さんと叔母さんとが音楽会にいったので、夜遅くまで起きて待っていたが、何にも持って来てくれなかった。つまらないから黙って先に寝てしまった。すると翌日、叔母さんから絵具を買って貰った。――叔父さんが恐い顔をして一日黙っていた。何を云ってもよく返事もしてくれなかった。後で叔母さんに聞くと、叔父さんは何か考え事をしてるのだそうだった。そういう時は静かにしていなければいけな
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