しようと水谷から度々云ってきた時、野村は右の事情をうち明けて、負債が無くなるまで下宿住居をするつもりだと断ったそうである。
周平は更にまじまじと野村の顔を見つめた。三疊の控室までついてる上等の座敷を占領し、相当な調度《ちょうど》の類から洋服箪笥まで備え、艶やかに光ってる額の上の髪を、毎朝二十分もかかって綺麗に分けてる野村に、そんな負債があろうとは夢にも思わなかったのである。そして、身の廻りをきちんと整えて、下宿の室に呑気そうに煙草をくゆらしてる野村の気持が、彼には分らなくなってきた。
「そんなものは、」と彼は云った、「早く返してしまったらいいじゃありませんか。」
「それがねえ、なかなかそうはいかないものですよ。急がば廻れっていうこともあるし、多少の体面もつくろってゆかなければならないですからね。……それは兎に角として、」と彼は俄に真面目な調子になった、「いくら困っても借金をするものではありません。今日あるだけのものでやってゆくという主義でなければ駄目です。」
周平はまた黙って彼の顔を眺めた。
「所で、君のことですが、」と野村は云い進んだ、「しっかりした覚悟を要すると思うんです。水谷さんの方はあの通りだし、僕も右のような事情で余裕がないものですから、自分で学費を稼ぎ出すという方針を立てなければなりませんよ。それは苦しいことには違いないが、なに全部稼がなくとも、不足の分位ならまた、水谷さんからの不時の送金もあるでしょうし、場合によっては僕が立替えてあげてもいいです。ただ、しっかりした決心だけは必要です。」
「それは初めから覚悟していたことですから……。」と周平は云った。
「勿論あの時もそうだったでしょうが、此度は実際の問題になったのですからね。……そして、何か仕事の心当りでもありますか。」
問われてみると、周平は何もなかった。殆んど見当さえつかなかった。その様子を野村は暫く窺っていたが、やがて云い出した。
「実は、水谷さんの手紙を見た時、僕はすぐに今後のことを考えてみたのです。横田さんの家へ君を訪ねていった時、その相談をするつもりだったのが、何か考え耽ってるような君の様子を見て、云い出しかねたんです。そして、知人に尋ねてみた所が、仕事が一つあるにはあるんですがね、極めて割の悪い仕事だが、どうです、やってみますか。」
それは、或る書物の飜訳だった。野村と同じ銀行に出てる人で、労働問題を少し研究してる人があった。そして最近、「労働組合と労働者」と題する英語の書物を手に入れた。労働組合なるものの本質を論じたもので、各国の組合が引例してあった。ドイツやフランスやイタリーなどの言葉が出て来た。その人は英語きり知らないので可なり困っていた。そこへ野村から井上の話があった。それならば書物を訳して貰ってもいいということになった。然し、英語以外の言葉さえ訳して貰えば用は足りるのを、半ば義侠的に書物全体の訳を頼むのだから、報酬は極めて少なかった。三百頁足らずの書物で、一頁五十錢位の見当だとのことだった。その代り期日の制限はなかった。
「君は大学に毎日通ってるのだから、どの国語でも尋ねる便宜はあるでしょう。それに、経済上の専門語だって、その人に意味が通じさえすればいいのだから、いい加減に訳して大丈夫です。隙にあかしてやってみませんか。報酬の少いのが気の毒ですが。」
周平は自分にやれるかどうか不安だったが、兎も角もという条件で承諾した。書物はすぐに野村から送って貰うことにした。
「そのうちにはもっといい仕事もあるだろうから、気をつけて置きましょう。」
「お願いします。」と周平は云った。
やがて周平が帰りかけようとすると、野村は思い出したように尋ねかけてきた。
「君は先刻《さっき》、横田さんの方を断るかも知れないと云ったが、何かあったんですか。」
「いいえ、別に……。」そして彼は一寸言葉を途切らした。「ただ、頭のいい子だから無駄なことをしてるような気がするだけです。」
「そんなら君、断ることは少しもないですよ、元々向うの好意から出たのだから。」
「ええ。」と周平は曖昧な返辞をした。
立ち上った時一寸呼び止められて、そこいらへお茶でも飲みに行こうかと誘われたのを、彼は断って、妙に慌しいような気持で辞し去った。
「この次一緒に飯でも食いながらゆっくり話しましょう。」と野村は彼を送って階段を下りながら云っていた。
二十四
周平は狭苦しい下宿の四疊半に身を投げ出し、両の拳《こぶし》を握りしめて深く息をした。
確かめておくつもりの自分の生活は、この上もなく明かになった訳だった。他からの補助は一切期待出来なくて、自分の腕一つに頼るのみとなった。手に触れるものは凡てを引掴んでいこう、と彼は決心した。その決心の下から、世を呪い人を呪いたい気持が湧き上ってくるのを、彼はじっと押えつけた。最初苦学をも辞さないと決心した時のことが、頭の中に浮んできた。記憶の底にこびりついてるあの晩の夢が、また思い出された。逞しい乞食の姿が見えてきた。彼は自ら云った。「自分は逞しい乞食となりたくはない。逞しい闘者となりたい。」
それでも、決心だけはあっても、これからどうしていったらいいか、殆んど見当がつかなかった。思いあぐんだ末には、ただ保子のことがしみじみと考えられた。
野村からはやがて、「労働組合と労働者」を送ってきた。周平は一寸覗いてみて驚いた。文章がいやにひねくれてる上に、自分の知識の範囲外のことなので、理解するのが非常に困難だった。更にそれを日本文になおすとなると、やたらに出てくる経済上の言葉を、どう訳していいか分らなかった。その上彼は、英語と独逸語しか知らなかった。中に出てくる仏語や伊語を大学の誰彼に聞くのも大変だった。彼はその文章に少し馴れるために、三日もかかってざっと通読してみた。――労働組合は、初め資本家に対する労働者の自己防衛機関として出来たものだが、次に共済機関となり、一転して戦闘機関となった。そして、戦闘の勝利と共に解体す可きものである。なぜなら、勝利の後に労働者は、個人として小資本家になるか、或は団体として大資本家になるを以て、組合は畢竟資本家の組合になる運命にあるからである。この危機を救済せんがためには、財を個人もしくは個人の団体より解放しなければならない。換言すれば、所有の観念を根柢より覆してかからなければならない。――というのが大体の論旨らしかった。それに各国の労働組合の詳細な解剖が鏤めてあった。
周平には論の当否は勿論分らなかったし、詳細な点は文章の理解さえも困難だった。ただ、財を個人もしくは個人の団体より解放するということに、一寸気を惹かされた。然しその明瞭な観念は得られなかった。
彼は書物を投げ出し、自分自身をも疊の上に投げ出した。外にはしとしと雨が降っていた。梅雨のような陰鬱な雨だった。妙に物の輪郭がぼやけて薄暗かった。そして彼はいつのまにか、写し取った吉川の日記を又読み耽っていた。それに自ら気づくと、吉川と自分とが同一人であるような怪しい心の惑いが起った。
彼は立ち上って室の中をぐるぐる歩き出した。彼女に、保子に、もう一度逢いたかった。その晴れやかな張りのある声を聞きたかった。然しこちらから訪れて行くのは憚られた。あの約束は、単なる約束として心に秘むべきもので、それに頼って図々しい行動に出てはいけないような気がした。
保子からは何の便りもなかった。彼は次第に憂鬱な絶望のうちに陥っていった。
所が、或る朝――周平が下宿へ帰ってから十日ばかりの後――保子の葉書がふいに舞い込んだ。
その朝周平は、いつもの通り遅く眼を覚した。もう廊下向うの雨戸を明け放してあった。枕頭《まくらもと》には新聞が投げ込まれていた。彼は眼をこすりながら、その新聞を取ろうとした。すると、新聞の上から疊へぱたりと落ちたものがあった。一枚の絵葉書だった。松が二三本並んだ砂浜の向うに、大きな波を捲き返してる広々とした海があった。周平はそれを一寸眺めた。下の方に刷り込まれてる大洗《おおあらい》という文字が眼に留った。彼ははっとした。急いで表を返して読んでいった。
其後どうなすったの。ちっともお出でがないのね。御病気じゃなくって。御病気だったら見舞に上るわ。御病気でなかったらいらっしゃいよ。隆吉も待ってますから。あなたに見せたいものがあるのよ。
[#地から2字上げ]横田保子
周平は葉書を手にしたまま飛び起きた。窓の戸を開け放った。涼しい空気が流れ込んできた。彼はまた其処に坐って、二度くり返して葉書の文句を読み直した。それからその名前をじっと眺めた。
初めの驚きと喜びとの胸騒ぎが静まると、彼は変な気がしてきた。横田保子と口の中で云ってみた。見知らぬ人の名前にでも出逢ったような気持だった。彼にとっては、横田というのは主人|禎輔《ていすけ》の方のことであり、保子というのは――勿論横田夫人ではあるが――なつかしい「彼女」のことであった。横田保子と両方くっつけた名前を彼は嘗てはっきり頭に入れたことがなかったのである。彼はまた横田保子と口の中でくり返した。
それに自ら気づいた時彼は、自分が如何なる地位に在るかをはっきり感じた。自分の態度をきめてかからなければならないことを感じた。
もう横田の家から身を退くのが至当だと思い、保子との約束だけを心に秘めて自分一人の途を進もうと思ったのは、単なる気持の上のことだけだった。それが今は、保子の葉書をつきつけられた今は、ごまかしを許さない実際の問題となったのである。
彼はその半日考えあぐんだ。然しいくら考えても解決される問題ではなかった。反撥的な昂然とした気持にもなった。暗い絶望の気持にもなった。ただ彼女が恋しくて切ない気持にもなった。凡てを夢だとする清々しい気持にもなった。周囲にも自分自身にも反抗して起とうという勇ましい気持にもなった。万事を投げ出して彼女の心に縋ろうという気持にもなった。そしてしまいには、あらゆる気持が錯雑して、昏迷のうちにひっそりと静まり返った。
彼はうち開いた窓から大空を眺めた。空にはもう秋の色があった。しめやかなものが心をしめつけてきた。彼は長い間じっとしていたが、俄に意を決して立ち上った。――彼女に対する気持は、それを遠い昔の恋として心の奥に押込んでおこう。そうすることから湧いてくる悲壮な力を、自分自身を振い立たせる方へ導いて進んでゆこう。凡てを未来にかけて過去を葬ろう!
彼は机の抽斗から、吉川の日記の写しを取出して、それを火鉢の中で灰にしてしまった。ぺらぺらと紙をなめる青い焔を見ていると、云い知れぬ涙が出て来た。その涙も今は快いものであった。
彼は腕を組み眼を閉じ頭を垂れて、暫く無念無想にはいろうとした。そして、それが乱れかけてきた時つと立ち上った。それから横田の家へ急いだ。
二十五
周平は横田の家の前を二三度往き来して、それから意を決してはいって行った。玄関に出て来た女中の後について、座敷へ通った。
「井上さんがいらっしゃいました。」
そう保子へ告げてる女中の後ろに、彼はぼんやりつっ立っていた。保子はその姿を見ると、丁寧だといえる位に挨拶をした。
「いらっしゃい。」
周平は一寸狼狽した。が次の瞬間には、強い調子の言葉を浴せかけられていた。
「井上さん、どうしたの? 用がなければそれっきりとは、随分ひどいわよ。私あなたが来たら、うんと小言《こごと》を云ってやろうと思ってたのよ。」
然しその眼はやさしい色を浮べて、彼を抱き取っていた。彼は変にちぐはぐな気持で、其処へ坐りながら云った。
「一寸忙しい用があったものですから……。」
「君にだって忙しいことがあるのかい?」と庭の方から声がした。
横田が庭の中に屈んで、水を半分ばかり張った大きな空の蓮鉢を眺めていた。周平はかすかな驚きを覚えた。それを自ら押し隠して云った。
「もうお帰りなすったんですか。」
「ああ二三日前に。」と横田は答えた。それから急に調子を変えた。「留守中はいろいろ有難う。
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