も呼びかけるような心地だった。現実と夢との境がぼやけてしまった。眼覚めてるのか眠ってるのか分らない気持だった。何かをしきりに考えてるのが、いつのまにか悪夢のような形を取り、そしてうとうとしてるかと思うと、またはっと眼覚めた、そういうことを何度もくり返した。

     二十二

 周平がはっきりした意識に返った時、室の中は薄暗かった。電燈が消えて雨戸の隙間から明るい光りが洩れていた。彼は驚いて飛び起きた。雨戸を一枚開くと、朝日の光りがさっと浴せかかった。彼はくらくらとした眼を閉じて、それをまた開いた。東の空に太陽が昇っていた。その強い光りに縫われて、薄い靄が低く流れていた。
 彼はその景色に暫く見とれていた。それから深く呼吸をした。日の光りの下で考えると、前夜のことが頭の奥へ潜み込んでしまった。そしてただ、万事終ったという捨鉢な気持だけが残った。
 彼は室を片付けて、階下に下りていった。
 保子はもう起きていた。彼の顔をじっとみながら云った。
「相変らずの寝坊だわね。」
 周平は弁解しようとした、昨晩よく眠らなかったからだと。然しその言葉が喉につかえて出なかった。ちらりと彼女の方を見ると、彼女はいつもの通りの落着いた平静な顔をしていた。心もち見開いてる眼が、明るい外光を受けた睫毛の影を宿して、夢みるような美しさを持っていた。周平は眼を外らした。
 隆吉をも交えて三人で食事をする時、食後一寸茶の間に坐っている時、周平は顔を伏せて黙っていた。変な気持だった。間もなくこの家を出て行くのだと分っていながら、それが遠い未来のことのような気がした。保子は何とも云わなかった。
 周平は立ち上って二階の室を見廻してきた。庭の中を歩いてきた。新聞を隅から隅まで読んだ。――そういう自分の姿が、何だか図々しく自分の眼に映じた。
「もう帰ります。」と彼は云った。
「そう。」と保子は静かに云った。「でもまだ早いわよ。ゆっくりしていらっしゃい。」
 彼女が何と思ってるのか、周平には更に見当がつかなかった。前夜の約束がまた頭に浮んできた。じっとして居れなくなった。
「もう帰っても宣しいでしょう。」と彼はまた云った。
「ええ、今すぐよ。一寸待っていらっしゃい。」
 それでも彼女は落着き払っていた。やがて、女中が食事を済し後片付けをした頃、彼女は立っていった。すぐに戻ってきて、周平の顔をまじまじと見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。見戍りながら[#「見戍りながら」は底本では「見戌りながら」]黙っていた。
 そこへ、隆吉がかけ出してきた。
「僕遊びに行ってもいいの。」
「後になさい。」と保子は答えた。「井上さんがお帰りなさるんだから。」
「井上さんの所へ行くんだよ。」
「そう。でも今日はお止しなさい。またこの次にしたらいいでしょう。」
「この次にはついて行ってもいいの。」
「ええ。」
 隆吉は暫くじっとしていたが、つまらなそうな顔をして其処に寝転んだ。
 周平は息苦しい気がした。立ち上って二階の室に上った。着物の包みを枕にして横になった。うち開いた東の窓から、眩しいほどの日の光りが室の中に流れ込んでいた。彼は立ってその窓を閉めた。暫くすると、またその窓を開いた。何れにしても落着かなかった。気持がじりじりしてきた。
 女中が彼を呼びに来た。表に俥《くるま》が一台待っていた。彼は喫驚した。
「歩いて行きます。」と彼は保子の前に云った。
「いいから乗っていらっしゃい。」と保子は云った。
 彼は云い張った。僅かな風呂敷包み一つだし、そう遠くもないし、それにまた、俥になんか乗って行きたくないと。然し保子は承知しなかった。
「あなたは、」と保子は云った、「私に恥をかかせるつもりですか。」
 周平はその言葉を胸の真中に受けた。顔を伏せると、俄に涙が出てきた。
「乗って行きます。」と後は云った。
「そして、昨晩の約束を忘れないようになさい。」
 周平は顔を挙げた。瞬間に、保子はつと身を飜して、玄関に出て行った。
 周平は首垂れながら彼女の後についていった。無言のままお辞儀をして俥に乗った。保子と隆吉と女中とが其処に立っているのをちらと見やっただけで、また頭を下げた。

     二十三

 突然のことだったので、下宿では室の掃除も出来ていなかった。周平はつかつかと、閉め切った薄暗い自分の四疊半にはいった。黴臭い厭な匂いがした。箒と払塵《はたき》と雑巾《ぞうきん》とを持った女中が、慌てて駈けてきた。周平は長く廊下に待たせられた。掃除がすんで室にはいったが、先刻の黴臭い匂いが鼻についていた。彼は窓をすっかり開け放してぼんやり外を眺めた。雲の影一つない青い空が、遠くへ彼の視線を吸い込んでいった。彼は眼の底が痛くなるのを感じた。
 彼は俄に思いついて室の中を片付けた。片付けるといっても、机と小さな本立と柳行李とだけだった。それが済むともう何もすることがなかった。みすぼらしい身の廻りが淋しかった。手拭を下げて銭湯に行ってきた。それから、室の中に寝転んで一日を過した。二時頃から窓に一杯西日がさした。その光が夕方俄に陰って、空が曇ってきた。そして暗い夜となった。空の中が蒸暑くて息苦しかった。
 周平は身を動かすのが堪らないような気がした。身を動かす度に心の中の空しい寂寞さがゆらゆらと揺《ゆら》いで、自分の身体を包み込んでしまいそうだった。じっとしていたかった。何物にもそっと手を触れないでいたかった。
 むりに頭の働きを押えつけ、凡てを失ったという気持だけを懐いて、彼は早くから床にはいった。そしてぐっすり眠った。
 その眠りが、翌日になってもまた彼を囚えた。朝食後じっと机にもたれていると、いつのまにかうとうととしていた。ほっと眼を覚して、此度は寝転んでみたが、やはりいつしかうとうととしていた。眼を覚してるだけの気力が無くなったかのようだった。しまいに彼は、そのだだ白い眠りの中に身を投げ出した。
 そういう睡魔の下から、保子のことが影絵のように浮き上ってきた。うつらうつらとした夢心地の薄暗い背景から、彼女の澄み切った眼がじっとこちらを覗いていた。周平は云い知れぬ心の戦《おのの》きを感じた。彼女の前にひれ伏したい気持ともはやそれも許されないという意識とが、彼のうちで入り乱れた。彼は彼女との約束を思い出した。彼女の最後の言葉がはっきり耳に響いてきた。
 彼は自ら云った。「もう万事終ったのだ。彼女の寛容に、このうえ甘えることはそれを涜すことなのだ。自分は自分一人の途を進もう。彼女との約束を心に秘めて、それを力として、自分一人の途を進もう。」
 それは何とも云えない悲壮な感激だった。周平は初めて眠りから覚めたような心地で、自分のまわりを見廻した。貧しい淋しい室一つが自分のものだった。
 彼は立ち上って腕を打ち振った。泣きたいような気持が寄せてくるのを強いて郤けた。そして野村を訪れてみた。これからの生活を確めておくつもりだった。
 野村は丁度その晩家に居た。
「やあ珍らしいですね。どうしたんです、暫く来なかったが。何か面白いことでもあったですか。」
 そういう風に彼は周平を迎えてじっと顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。
 周平は妙にぎごちない気持で座に就いた。野村からいろんな話をもちかけられるのに、ともすると的外れの返事をしそうな気がして、口を噤みがちだった。
「あ、そうそう、」と野村は初めて思い出したように云った、「君は横田さんの家へ留守に行っていたが、まだ続いて居るんですか。」
「いえ、二三日前下宿に帰ってきました。」
「どうして? 来月の初めまでとかいうことではなかったですか。」
「所が、奥さんと隆ちゃんとが急に戻って来られたものですから、僕も引上げたんです。」
「引上げるはよかったな。……そして、やはりこれからも教えに行くんでしょう。」
「そうですね……。」と云いかけて周平は言葉を途切らした。何と云っていいものか一寸分らなかった。暫くして続けた。「隆ちゃんは非常に頭がよくて、別に教える必要がないものですから、僕は断ろうかと思っています。勿論あの仕事は横田さんの好意からですけれど、無駄なことをして報酬ばかりを貰ってるのは、余り向うの好意に甘えるような気がして、実は心苦しいんです。」
「そしてどの位貰っています?」
「月に二十円です。」
「それ位のことなら、黙って貰っといていいじゃないですか。」
「ですけれど……。」
 周平は説明に困った。今後の生活を確かめにやって来たのだけれど、横田の方を止すかも知れないという口実は考えていなかったのである。然し、それからでなければ問題にはいっていけそうになかった。彼は自分の迂濶さに気づいた。さりとて、保子のことをうち明けられもしなかった。眼を伏せて考え込んでると、野村の方から尋ねかけてきた。
「何か気まずいことでもあるのですか。」
「別にそういう訳でもないんですが。」と周平は答えた。
「実はね、君に相談しようと思ってたことがあるんです。」
 周平は黙って野村の顔を見上げた。
「今月のはじめ、横田さんの家へ君を訪ねていったことがあるでしょう。あの時実は君に話があったんです。然し君が、変に何か考え込んで、気乗りのしない風をしていたものだから、それに急な話でもなかったから、僕は黙って帰って来たんですが……。何か心配なことでも起ったのですか。」
「どんな話です?」と周平は向うの問いに構わず尋ねた。
 野村はなかなかそれを云い出さなかった。月々どれ位でやってゆけるかとか、きりつめたらどうだとか、そんなことに話を向けていった。その眼には、何だか気の毒そうな色が浮んでいた。周平は漠然と或る不安を感じだした。
「生活はどうにでもなるんでしょう。僕はあるだけのものでやっていく覚悟をしています。」と周平は云った。「ですが、今の、話というのは一体どんなことですか。」
「どうって、まだはっきりしたことではないが……漢口《はんこう》の水谷さんから手紙が来たんです。」
 そして彼は、机の抽斗から一通の信書を取出した。
 周平は差出された手紙を披《ひら》いて読んだ。――初めには時候の挨拶から、毎度井上が世話になる礼が述べられていた。「扨て甚だ唐突の儀に候えど」として本文にはいっていた。支那人の排日熱のため商況が俄に不振となり、加うるに暴動があったため、水谷の店も多大の打撃を蒙って、今後の送金は意に任せないかも知れない、としてあった。やがて恢復の途もあろうけれど、目下の所は全く見当がつかないので、こちらからの送金は出来得る限り心掛けておくつもりではあるが、不時のものとして予算に入れずに、他から学費を得る方法を講ずるよう、井上へもよく申し聞かせ、なお御尽力を願いたい、と認めてあった。「場合によっては貴下の事情も本人へ御話相成、心して進むよう何分の御指導を煩わし度、」というようなことがあって、実は井上へ直接申してやるべきだが、「御承知の如き小心者故」悲観するといけないから、折を見てとくと話して頂きたい、と結んであった。
 周平は――我ながらそれを変な気がしたが――大した打撃をも感じなかった。いつかはぶつかるべきものにぶつかったという気持だった。彼は注意して二度くり返し手紙を読んだ。そして野村の顔をじっと眺めた。野村も黙って彼の顔を見返した。
「この後に便りがありましたか。」と彼は尋ねた。
「他のことで一度手紙が来たですが、よほど困っていられるらしいです。それでも、一週間ばかり前に、君へやってくれと云って三十円送って来ました。」
 それから野村は暫く黙っていたが、突然こんな事を云い出した。
「手紙の中に、僕の事情も君へ話してきかして指導してくれ、というようなことがあったでしょう。それはね、借金をしてはいけないという意味ですよ。」
 野村の語る所に依れば、彼は大学卒業前に少し無駄使いをして高利の金を借り、それがまだ千円余り残っていて、月々六分の利子の支払いにさえ追われてる始末だそうだった。――どうして水谷がそれを知ってるかといえば、知人の令嬢を妻に世話
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