分のしたことは自分で分ってるつもりだなんて、よくも図々しく云えたものね。……あなたが涙ぐんでる所をみると、少しは良心もあるのでしょう。よく考えてごらんなさい。私はもうあなたみたいな人のことは知らないから、自分でこの始末をおつけなさるがいいわ。」
 周平は黙っていた。
 保子はまた云い続けた。
「あなたは自分で恐ろしいとは思わないんですか。他人の日記なんかは、たとい眼の前に出ていてもなかなか見られるものではないわよ。それを、留守中にこそこそ探すなんて、泥棒よりも悪いことよ。泥棒は何か或る品物を盗むきりだけれど、あなたは、他人の心の秘密を盗み取ろうとしてるのよ。私そんな陰険な心の人は大嫌い。……いつぞや、あなたは隆吉をそそのかして、吉川さんの写真を見ようとしたわね。あの時は何とも思わなかったけれど、今考えると、今度のことと全く同じ気持だったのでしょう。私思ってもぞっとする。あなたを側に置いとくことは、まるで探偵にでもつけられてるようなものだわ。」
 周平は、頭の上から落ちかかってくる叱責の言葉を、一語々々味っていった。その苛辣な味に心を刺されることが、今は却って快かった。どうせ踏み蹂ってしまわなければならない恋だった。それを彼女の怒りによって踏み蹂られることは、寧ろ本望だった。彼はじっと眼をつぶって、絶望の底に甘い落着きを得てる自分の心を見戍っていた[#「見戍っていた」は底本では「見戌っていた」]。――所へ、意外な言葉が落ちかかってきた。
「あなたは隆吉へどんな影響を与えてるか、気が付いていますか。」
 周平はぼんやり顔を挙げた。保子は続けて云った。
「隆吉が可哀そうな身の上であることは、あなたにも始めから分っていた筈よ。私達はあの子に、その一人ぽっちの淋しさを忘れさせようと、どんなに骨折ったか知れないわ。そしてあの子が素直に快活になったのを見て、心から喜んでいたのよ。すると、この夏休みの前頃から妙に陰鬱になって、暗い顔をして考え込んでるのが時々眼につくばかりでなく、何だか始終私達に気兼ねでもしてる様子だし、またふいに、お父さんの話をしてくれとか、お母さんはまだ生きてるのとか、これまで口にもしなかったことを聞くものだから、どんなにか気をもんだでしょう。そしてついこないだ、またお父さんのことを聞くから、そんなことを聞いてどうするんですと尋ねると、井上さんに話してあげるのだと答えたわよ。病気で熱が出てた時のことよ。井上さんとお父さんとが僕を置きざりにして逃げていった、というような夢をみたと云って、しくしく泣いてたこともあってよ。……あなたそれをどう思って? あの子のそういう心持も、あなたに責任がないとは云わせないわ、あなたは私達皆の心持に、どんな毒を流し込んでるか、よく考えてごらんなさい。」
 周平は初めて口を開いた。調子は落着いていた。
「よく分りました。私が悪かったのです。」
「悪かったというだけで済むと思って?」
 保子は憤りと興奮とで顔を真赤にしていた。周平は更に苛酷な叱責の言葉を待った。然し彼女は唇を痙攣的に震わせるきりで、もう何とも云わなかった。周平は静かに云った。
「私は自分で凡ての責任を負うつもりです。今は何にも申しませんけれど、いつかは、私のことをすっかり理解して頂ける時もあるような気がしますから、それを頼りに、自分一人の途を歩いてゆきましょう。」
 保子は眉根一つ動かさなかった。憎悪の念に凝り固ってるかと思われた。周平はぴょこりとお辞儀をした。そして、立ち上りかけながら云った。
「私は自分を……。」
 云いかけて彼は口を噤んだ。じっと眼を見据えてる保子の姿が恐ろしくなった。彼はまたお辞儀をした。一寸待った。そして逃げるように二階の室へ上っていった。

     二十一

 周平は、一月近く起臥《おきふし》した室に、これを最後の気持で身を投げ出した。明日は永久にこの家から去るつもりだった。そうすることが誰のためにも一番よい方法だと思った。
 今迄のことを考えると、真暗な森の中にでも迷い込んだ後のような気がした。何かを見定めようとしても、まとまった象《すがた》は一つも浮ばなかった。頭がぼんやりして考える力がなかった。
 彼は両手を頭の下にあてがって、仰向けに寝転んで天井を眺めていたが、ふと思い出して、身廻りの物を片付け始めた。身廻りの物といっても、二三枚の着物と四五冊の書物だけだった。彼はそれを丁寧に風呂敷に包んだ。そしてぼんやりと坐ってると、風呂敷包みを手にしてこの家から出ていく自分の姿が、まざまざと見えてきた。その姿が首垂れながらとぼとぼと歩いてゆく、宿りを失った旅人のように。朝早くのことだ。まぐれ犬が裾のあたりを嗅ぎ嗅ぎつけてくる。それでも黙って眼を伏せている。そのみすぼらしい姿が、爽かな朝の明るみの中に、くっきりと浮出される……。
 周平は堪らなく淋しい気になった。万事を放擲するつもりではいたが、やはり、何かを、やさしい眼付を、心の底に懐いて去りたかった。それが得られないならば、それを求めてることだけでも、せめて知って貰いたかった。彼女の無理解な怒りだけを荷って去ることは、余りに堪え難かった。彼女に――横田夫人にではなく直接彼女に、自分の思いを一言伝えたかった。それで更に彼女の怒りを買うなら、それは正当な怒りとして喜んで受けよう。
 彼は机に向って、紙とペンとを前にして考え込んだ。到底口では云えないその文句を、彼女の前に投げ出して、それを読んだ時の彼女の眼付を――たといどんな眼付であろうとも――心に秘めて、黙って立去るつもりだった。
 然し、それは口で云えないと同様に、文字にもなかなか現わせなかった。長い説明をはぶいて数語で尽したかっただけに、猶更困難だった。二三の言葉を頭に浮べたが、どれも皆胸にはっきりうつらないものばかりだった。考えあぐんでるうちに、彼は漠然とした疑念を覚えた。彼女に対する自分の気持を、彼は今迄恋だとばかり思い込んでいたが、いざそれをはっきりした文字にしようとすると、恋というのではよくあてはまらなかった。恋、愛、思慕……どれもこれもいけなかった。それらの一部分ずつ含んだ形体《えたい》の知れない感情だった。姉として、異性として、女友達として、慰安者として、保護者として……なつかしみ慕う、というばかりでもなかった。彼は自分の感情にそぐわない多くの言葉を、次から次へと脳裡に迎え送りながら、云い知れぬ迷いのうちに陥っていった。
 どれ位たったか分らなかったが、その時間の終りに、彼は飛び上らんばかりに喫驚した。人の気配《けはい》がしたので初めて我に返ってふり向くと、其処に、階段の上り口から一歩足を踏み入れて、保子がつっ立っていたのである。彼は恐怖に近い驚きを感じた。保子の顔は蝋のように蒼白く輝いていた。
 あたりは不気味なほどひっそりしていた。
 保子はちらりと室の中を見廻して、二三歩はいり込んで来、周平から少し間を置いて坐った。
「今迄何をしていたの?」と彼女は云った。語尾が整然としていた。
 周平は切めの驚きからまださめずに、息を凝らしていた。急に言葉も出せなかった。
「え、何をしていたの? それとも云えないの?」
 何等のごまかしも許さない彼女の強い気合を、周平はひしと感じた。彼はありのまま答えた。
「お別れする前にあなたへ一言申上げたいことがあったのです。それを書こうとしていました。」
「それは書けて?」
「書けません。」
「そう。」
 しいんとなった。やがて彼女は云った。
「あなたは明日《あした》下宿へ帰るつもりでしょう。」
「ええ。」
「そして?」
 周平は眼付でその意味を尋ねた。
「そしてこの家へは?」
「もう参らないつもりです。」
「そう。」と彼女はまた云った。
 底の知れないような沈黙が落ちてきた。周平は彼女の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。蒼白い引緊った頬と円みを持った眼瞼の上の美しい眉とが、人の心を惹くやさしみを湛えてると共に口角のぽつりとした凹みと曇りのない眼の光りとが、近づき難い威を示していた。その両方からくる感じの何れに就いていいかを、彼は迷った。迷ってるうちに、深い沈黙が恐ろしくなった。心の底まで彼女の手中に握られてゆくのを感じた。身動きが出来なかった。彼は眼を伏せて、彼女の艶やかな小さな手の爪を見つめた。
「あなたは先刻私からあんなに怒られたのを、口惜しいと思って?」
「いいえ、当然だと思っています。」と彼は答えた。
「嘘仰しゃい!」と彼女は一言でそれをうち消した。「弁解したいことがあるでしょう。」
「ありません。」と彼は答えた。
「あるけれど出来ないのでしょう。」
 彼ははっとして顔を挙げた。それを瞬間に彼女は口早に押被《おっかぶ》せた。
「先刻のことはみんな取消してあげるから、その代り、私の云う通り約束なさいよ。」
 彼はもう云われるままになる外はないのを知った。無言のうちに首肯《うなず》いた。
「私の日記を探したことや、吉川さんの日記を見たことを、誰にも決して云わないと誓えて?」それから一寸間が置かれた。
「そして、これからも今迄通りにしてゆくと誓えて?」
 彼は何にも考えなかった。石のように固くなりながら答えた。
「誓います。」
「確かね。」
「ええ。」
「もう過ぎ去ったことは何にも云わないことにするのよ。明日下宿に帰してあげるから、今の誓いを守れるように一人でよくお考えなさい。……分って?」
 彼は胸の奥底まで突き動かされた。頭を次第に低く垂れていると、俄に涙が出てきた。頬から膝へはらはらと流れた。見開いた眼が涙で一杯になって、何にも見えなくなった。彼は危く我を忘れようとした。
 その時、彼女はつと立ち上った。一寸佇んで、それから静に室を出て行った。彼は涙のうちに一人残されたのを知った。
 彼は永い間そのままじっとしていた。頬の涙が乾くと、夢からさめたように室の中を見廻した。机の上の紙とペンとが眼に留った。彼はそれを安らかな心で眺めた。彼女に対する気持が、たとえ恋であるにせよないにせよ、それはもうどうでもいいことのように思えた。
 彼はほっと息をついた。彼女から凡てを知られてることが、しみじみと胸にこたえてきた。そして何のわだかまりもなく彼女のことを想い耽っていると、最後の約束が頭に浮んできた。そこで彼ははたと行きづまった。彼女は何でああいう約束を強いたのか? 彼を救うためなのか、彼女自身の身を護るためなのか、或は愛情の保証を間接に与えるためなのか?……その何れとも判じ難かった。彼は新らしく謎を投げかけられたような気がした。
 思い惑っているうちに、彼女と対坐したことまでが夢のようにも感ぜられた。交わした言葉は短かったけれど、間々に沈黙がはさまっていたので、可なり永い時間に違いなかった。それが今考えると、僅か一二瞬間のことだったとしか思えなかった。その上凡てが余り静かに落着きすぎていた。宛も水中で起ったことのようだった。……然し、夢である筈はなかった。
 耳を澄すと、しいんと夜が更けていた。彼は立ち上って蒲団を敷いた。小用《こよう》を足しに下りていった。階段に一歩足をかけると、そこの板がきしった。彼はぎくりとした。その後で、何のために驚いたのか自分でも分らなくなった。それでも彼はやはり、息を凝らし足音をぬすんで、そっと歩いていった。その姿が我ながら惨めで堪らなかった。何を憚ることがあるのかと自ら云ってみたけれど、向うの室に保子と隆吉とが寝てるということが、しきりに気に懸った。
 匐うようにして自分の室にまた上ってきた時、彼は妙に惘然としてしまっていた。急いで寝間着に着代えようとした。所がその寝間着が見つからなかった[#「見つからなかった」は底本では「自つからなかった」]。押入の中から布団の間々まで、あちらこちら探してみた。するうちに、机の横の風呂敷包みにはいってることを気づいた。彼はじっとその包みを見ていたが、堪らなくなって着物のまま布団にもぐり込んだ。
 保子さん! 彼はそう心の中で彼女の名を呼んでみた。夢の中の女にで
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