てああ憎しみの情が湧いてくるのか、周平は自ら惑った。隆吉の存在を邪魔にする理由はいくら考えても正当には見出せなかった。彼は隆吉に対する気持を置き換えようとつとめた。
然しそれが出来なかった。病気がだいぶよくなった隆吉は、背を円くして日向の縁側に蹲まりながら、露《あらわ》な鋭い眼付をして周平の方を見上げた。周平が和らいだ顔付をしてると、外に出たいとか植物園や動物園に行きたいとか云って謎をかけた。周平が眉をしかめてると、いつまでも黙っていた。或る晩、外には雨がしとしとと降っていた時、隆吉は突然こんなことを云い出した。
「井上さんはいつまでも家に居てくれるの?」
周平は黙っていた。
「そうすると僕は嬉しいんだけれど……。」
「なぜ?」と周平は問い返した。
「叔父さんがそう云ってたよ、井上さんはいろんなことを知ってるから、話をして貰うがいいって。」
「僕より叔父さんの方がいろんなことを知ってるよ。」
「叔父さんは駄目だ。ちっとも相手になってくれないんだから。」
「じゃあ叔母さんがいるじゃないの。」
隆吉はなんとも答えないで、周平の顔を見上げた。周平は胸の奥で不安な気がした。
「僕は隆ちゃんがすっかりよくなったら、下宿へ帰るつもりです。」と彼は冷かに云った。
「いやだ。」と隆吉は駄々をこねるように叫んだ。「僕叔母さんに頼んだの、井上さんがいつまでも家に居てくれるようにって。すると叔母さんは、あなたから井上さんに頼んでごらんなさいって云うんだもの。……僕一人ぽっちだからつまんないや。」
そういう彼の変に大人じみた凸額を、周平はじっと眺めた。そして其処に保子が来ると、隆吉は今迄の話を忘れてしまったかのように、けろりとした顔付で黙り込んだ。周平は騙されたような気がした。反感が起ってきた。その為に保子へも妙に口が利けなかった。彼は苛立ってくる心持を懐いて、二階の室に逃げて行くの外はなかった。
然し二階に行っても、保子と隆吉とを置きざりにしてきたことが気にかかって、永く落着けなかった。耳を澄すと、家の中はひっそりとして、軽い雨の音があたりを支配していた。彼は室の中を歩き廻った。狭苦しかった。隣りの書斎へもはいっていった。そしていつのまにか彼は、本箱の抽斗を見い見い歩いていた。そこに吉川の日記がはいってるのだった。悲痛な文字がありありと頭に映じてきた。やり場のない憤激の念に駆られそうな心地がした。
彼は自分の心が恐ろしくなって、外に散歩に出てみた。冷たい雨を含んだ夜が真暗だった。道が泥濘《ぬか》っていた。寂しい空しい心地でまた帰ってくると、自分一人になるのが堪らなく佗しかった。
彼は保子と隆吉との所へ行って、皆が寝るまで黙って其処に坐っていた。海のことなんかを隆吉と話している保子が、時々彼の方へ言葉を向けて、彼の様子を窺うように眺めても、彼はその視線の前に自分自身を投げ出して、うわべを取繕おうとしなかった。拠り所のない絶望的な真摯な心地になっていた。
二十
周平は、二階の室と階下《した》の室との間を、しきりに往来《ゆきき》するようになった。二階に一人で寝転んでいるかと思うと、ふいに階下へ下りてきて、火のない長火鉢の前にぼんやり坐ったり、針仕事をしてる保子の前につっ立ったりした。保子や隆吉を相手に珍らしくいろんなことを饒舌ることもあった。かと思うと、俄に黙り込んだり、または二階へ上っていった。暫くするとまた階下へやって来た。滅多に外へは出なかった。――そういう自分自身を、彼は自ら意識した。そしては更に、投げやりの頼りない気持に陥っていった。どうしようという気は殆どなかった。どん底に落着いたような自棄的な心だけが、いやに真剣になっていた。
「少し外に出てごらんなさいな、朝晩はいい気持よ。」と保子はよく云った。
「ええ。」と周平は答えたがやはり出かけようともしなかった。
保子は彼の眼の中を覗き込んだ。
「あなたはこの頃よっぽど変よ。私達の留守中に何かあったのね。こないだ泣いてたのもそのことでしょう。包まず云ってごらんなさいな。一人で考え込んでるよりも、云ってしまった方がさっぱりしていいものよ。」
「それほどのことじゃないんです。」と周平は答えた。
「じゃあなお云ったって差支ないでしょう。」
「でも今は云いたくありません。」
「そう。」そして保子は一寸間を置いて眉を挙げた。「だけど今にきっと云いたくなるわよ。もうそろそろなりかかってるんじゃないの。」
周平は彼女の顔を眺めた。曇りのない輝いた二つの眼が、じっとこちらを覗いていた。ただ澄みきってるだけで、その底には何にも読み取れなかった。彼は自分の心が慴えてくるのを感じた。それが我ながら腑甲斐なかった。
「もう暫く、一人で考えていたいんです。」と彼は云った。「隆ちゃんの病気も殆んどなおったようですから、下宿に帰ろうかと思っています。」
保子は眼を見張った。
「どうして急にそんなことを云い出すの。横田が帰ってくる迄居るつもりじゃなかったんですか。」
それは保子一人できめてることだった。周平は曾てそんな約束をした覚えはなかった。然し彼は云い逆《さから》わなかった。また本当に下宿へ帰るつもりでもなかった。
「居てもいいんですけれど……。」と彼は口籠った。
「よければ居たらいいじゃないの。それに、あなたが帰ったら隆吉が淋しがるわよ。」そして彼女は言葉の調子をゆるめた。「不思議ねえ、あなたは別に愛想もないくせに妙に子供から好かれる所があるのね。こないだ隆吉がふいに、井上さんがいつまでも家にいてくれるといいなあ、と云い出したのよ。井上さんにじかに頼んでごらんなさい、と云っといたんですが、何かあなたに云いはしなくって?」
「本当ですか。」
保子は微笑んだ。
「おかしな人ね。誰がそんなつまらない嘘を云うものですか。」
周平は眼を見据えた。あの時のことを思い出した。隆吉に対して変に気を廻したのが、今になってみると、馬鹿げてるようなまた恥しいような気がした。その気持がまだおさまらないうちに、保子は正面から尋ねかけてきた。
「でも、あなたは隆吉をどう思って?」
周平は顔を挙げた。が咄嗟に答えが出なかった。
保子は直にたたみかけてきた。
「あなたは隆吉を余り好きじゃないわね。」
周平はぎくりとした。それを更に押被《おっかぶ》せられた。
「あんなに慕ってるのに、どうして嫌いなんでしょう、変ね。」
その直截な言葉は、殆んど抗弁の余地を与えないのを周平は感じた。それでいて、妙に彼の気持へぴたりとこなかった。彼は隆吉を嫌いではなかった。かと云って好きでもなかった。思い惑っていると、保子はまた云った。
「先《せん》にはそうでもなかったが、この頃隆吉に対するあなたの様子は変よ。一体どうしたというの?」
じっと彼を見てるその眼には、非難の色は少しもなかった。却って、庇うような温情が現われていた。周平は眼をつぶった。それをまた開いた。
「私は隆ちゃんを嫌いじゃありません。」と彼は云った。「ただ妙に愛せられないんです。離れていると何だか可哀そうに思われてきて、胸に抱きしめてやりたいような気持になりますけれど、側に行くと、急に小憎らしい……というより、気味悪いように思われるんです。頭がよくて悧口だけれど、余り無邪気な所のないのがいけないんです。向い合っていると、こちらの心の底まで見透されるような気がする時があります。そのために、私の方にもいろんな僻みが起るんです。余り考えすぎるからいけないんだとは知っていますけれど、隆ちゃんが始終暗い影を背負ってるように思われて仕方ありません。その影が……。」云ってるうちに周平は、持て余してる自分の心を保子の前にぶちまけてしまいたい気になっていった。「その影が私を脅かすんです。なぜそんなにこだわるのか、自分でも分りません。私は悪いことをしてしまいました。」
「悪いことって、何なの。」
「悪いことです。あなたや横田さんの信用を裏切ってしまったのです。」
「どうして?」
何等の疑念もなさそうに澄み返ってる彼女の眼を見ると、周平はさすがに云い出しかねた。じっと眼を伏せて唇を噛んだ。
「どうしたの、中途で黙り込んでしまって。云ってごらんなさいよ。私にも大抵分ってるような気がするけれど……。」
「済みません」と周平は云った。「吉川さんの日記を見たのです。」
「ええ? 吉川さん……。」
「吉川さんの最後の日記を見たのです。先生の本箱の抽斗にあったのを……。」
保子がさっと顔色を変えて少し身を押し進めてきたのを、周平は顔を伏せながら感じた。然し彼の心はもう動揺しなかった。云ってしまうと、絶望の底に自分自身を投げ出したような、一種の無感覚な惘然とした気持になった。そのままでいやに真剣に落着き払っていた。
保子も黙っていた。しいんと音がするような夜だった。隆吉は向うの室で眠っていた。電灯の光りがだだ白くて明るかった。周平は静かに顔を挙げた。石のように凝り固まった保子の顔がすぐ眼の前にあった。
「井上さん、」と保子はやがて云った、「あなた吉川さんのことを誰かに聞いたんでしょう。」
「ええ聞きました、嘘だか本当だか分らないような話を。然し誰からだかは尋ねないで下さい。」
「そしてあの日記を探す気になったのね。」
「いいえ。偶然に見つけたのです。」
「嘘。偶然に本箱の抽斗をかき廻す人があるものですか。」
「他のものを探すつもりだったのです。」
「何を?」
周平は首垂れた。ひとりでに涙が湧いてきて、眼瞼からこぼれそうになった。然し感動してるのではなかった。その涙を側からじっと見戍ってるような[#「見戍ってるような」は底本では「見戌ってるような」]心地だった。彼は疊の上を見つめながら、自分自身に向って云うかのように語りだした。
「私はあなたの日記を探すつもりだったのです。」そして彼は、涙が頬に流れ落ちるのをぼんやり感じた。奥さんと云わないであなたと云ってることも、保子がびくりと眉根を震わしたことも、共に知らなかった。「先《せん》にあなたから日記の一部を読んできかせられた時から……いえ、ここに留守に来てから、あの日記を全部見たくなりたのです。どうしてだか自分にも分りません。ただ見たかったのです。そして、あなたの室を探したけれど見つからないので、絶望的な気持になって、半ば自暴自棄にもなって、先生の書斎を検《しら》べたのです。すると、吉川さんの日記が出て来ました。……私は自分自身が堪らなく惨めな気がします。何とでも仰しゃって下さい。どうしていいか自分でも分らないのです。」
口を噤むと、風が吹過ぎたような静かな心地になった。彼は保子の厳しい声を安かな心で受けた。
「あなたはよくも平気でそんなことが出来たものね、まるで泥棒みたいなことが! それで正気ですか。」
周平は黙っていた。保子はまた云った。
「あなたは自分のしたことがどんなことだか分っていますか。」
保子が本当に怒ってるのを周平は感じた。眼を挙げてみると、彼女は少し引歪めた唇をきっと結んで、赤味のさした頬の肉を震わせながら、白目がちに眼を見据えていた。それでも彼は落着いた調子で答えた。
「自分ではよく分っているつもりでいます。」
「分っていながら、白ばっくれて図々しくしてようというのでしょう。」
周平は抗弁したいのをじっと抑えて、また顔を伏せた。彼女こそ何にも分っていないのだ、と思った。然し、この上自分の心を説明したくもなかった。しようとて出来もしなかった。ただ黙って彼女の叱責を受けたかった。それがせめてもの心やりだった。今更意中をうち明けたとて何になろう。彼女は自分が畏敬してる横田氏の夫人なのだ! それを思うと彼は、背中が冷たくなるのと眼の底が熱くなるのとを、同時に感じた。
「私あなたをそんな人だとは思わなかった。」と保子は云った。「あなたのためには随分尽してあげたつもりよ。此度留守を頼むのだって、あなたならば大丈夫だと横田にも私から保証したのよ。それなのに、あなたはまるで私達を踏みつけにした仕業をしておいて、自
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