つかせながら二三度家の前を通り越して、それから中にはいった。玄関にぼんやり立っていると、女中が出て来た。
「あら、井上さんじゃないの。お上りなさいな。お客様かと思った。」
 彼はそう云う女中の後について奥へ通った。
 保子は奥の室で、机の上に両肱を張ってもたれかかりながら、だらしない坐り方をしていた。周平がはいってゆくと、上半身だけで振り向いた。
「まあ喫驚したわ。」それから周平の顔を見つめた。「どうしたの、こんなに早くから。」
「だってもう十時じゃありませんか。」
「そんなになって?……でも、何か御用?」
 周平は「いいえ。」と答えようとしたが、それを止して、咄嗟に思いついた。
「先生はお家《うち》ですか。書物を借りに来たんですが。」
「一寸出かけなすったけれど、じきにお帰りでしょう。でも、お急ぎなら持っていらっしゃいよ、私があとで云っとくから。」
「ええ。」と周平は答えたが、なかなか立ち上らなかった。
 保子は妙に机の上をかばう様子だった。その方へ気を取られてるらしかった。それが周平の心を惹いた。彼は立ち上る風をして、その拍子に机の上を覗いた。
「あら見ちゃいやよ。」と保子は云った
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