たものがあった。不意だった。ぞっと身体が悚《すく》んだ。寂しい通りに、軒灯の光りが淡く流れていた。青葉をつけた木の枝が一本落ちてる中に片足を踏み込んでるのだった。足を抜こうとすると、ばさばさと音がして枝が一歩ついてきた。またぞっとした。やけに枝葉を払いのけて、五六歩足を早めた。冷たい汗が腋の下に流れていた。
彼はつとめて平静に返ろうとした。けれども、何かに追い立てられてるような不安さが消えなかった。そのことに気を取られているうちに、いつのまにか自分の下宿の前まで来ていた。つと中にはいった。喉《のど》が渇いていた。面倒くさいので、洗面所へ行ってそこの水道の水を飲んだ。
自分の室にはいると、すぐに寝てしまった。遠くでするような軽い頭痛を覚えた。頭痛の合間合間に彼は、保子のことを縋るようにして考えた。悲しげに微笑みかけてくれるやさしい姿だった。
然し、朝になると彼は、もうその幻に浸ることが出来なかった。清純な一徹な光りに澄みながら底に謎を含んだような彼女の眼が、じっと彼を眺めていた。彼は心の据え場に困った。
八
「井上さん、あなたはこの頃何だか様子が変よ。心配事でもあるの
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