考えもしなかった。
 二人は水道橋へ出た。掘割の水が黒く淀んで、冷かな火影がちらちら映《うつ》っていた。河岸《かし》通りは暴風に吹き清められたように、物影もなく広々と而も薄暗く続いていた。方向の分らない寒い風が寄せて来た。周平は身を震わした。外套も襟巻もないみすぼらしい自分の姿が、初めて惨めに顧みられた。
「おう寒い。」
 お清は独語のように呟いて、つと身を寄せてきたが、彼の背へ手を廻して、肩掛を半分ふわりと投げかけた。彼は懐から手を出して、その端を胸に押えながら肩をすぼめた。もう何物にも逆《さから》いたくなく、何事も考えたくなかった。
 砲兵工廠の石塀に沿って暫く歩いた後、お清は肩掛の中から突然云った。
「井上さん、あなたその奥さんと何でもないというのは、全く本当なの?」
 低い声ではあったが真剣な調子だった。然し周平はそれに心が向いていなかった。一寸間を置いてから事もなげに答えた。
「何でもないよ。」
「でも、心ではその奥さんのことを想ってるんでしょう。」
「想ってやしないよ。」
 それから二十歩ばかりして、彼女はまた云った。
「全く何でもないの!」
「ああ。」と周平は答えた。

前へ 次へ
全293ページ中263ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング