主張した。
 周平は口を噤んだ。彼は議論をしたくはなかった。ただ事実をじっと考えたかった。村田が先刻の話からけろりとして、盛にいろんなことを論じかけるのを、彼は簡単に受け答えして、しきりに杯の数を重ねた。頭がくらくらしてきた。
 いつのまにか雨は止んだらしかった。あたりはしんとしていた。向うの室の客の話声も途絶えていた。
「もう帰ろうか。」と周平は云い出した。
「ああ」と村田は答えて、俄に思い出したように、銚子の底に残っている冷たい酒を貪り飲んだ。
 外に出ると、綺麗に晴れた空をごく低く、薄白い雲が千切れ飛んでいた。雲の間から冴えた月が覗いていた。月の面を仰ぐと、湿っぽい冷かな風がさっと頬を撫でて、ぽつり……ぽつり……と、名残りの雨が落ちかかった。
 村田はふーっと酒臭い息を吐いて云った。
「いい晩だね。」
 それから二三十歩した後、彼は突然周平の方を振り向いた。
「君、吉川さんの話を余り気にかけちゃいけないぜ。」
「なぜ?」
「なぜってもう過ぎ去ったことじゃないか。それに、君は余りつまらないことにこだわり過ぎる傾きがあっていけない。こだわった揚句には、とんだ尻尾《しっぽ》を出す危険がある。兎に角ああいう話を僕や君が詳しく知ってるということは、横田さん達にとって快《こころよ》いことではあるまいと思うんだ。」
 電車通りに沿って暫く進んだ後、周平の下宿の方へ行く曲り角で、二人に立ち止った。
「君はこれから下宿へ帰るのか。」と村田は尋ねた。
「ああ。」と周平は答えた。
 村田はその顔をじっと眺めていたが、ふいに、「じゃあこれで失敬しよう、」と云い捨てて立去っていった。
 周平は一人薄暗い街路に残された。

     七

 一人になって初めて周平は、先刻の村田の話からひどく心を動かされてることに、自ら気づいた。酒の酔から来る興奮も手伝っていた。感傷的な悲壮な気分のうちに浸っていた。
 彼は下宿の方へ帰って行かずに、ただぼんやり歩き出した。雨は全く霽れていた。冷かな風が月の光を運んできた。彼は月を仰ぎ仰ぎ歩いていたが、やがて静かな横町へ曲り込むと、いつしか首垂れて考え込んだ。
 彼は、横田夫婦と隆吉とのことを考えていた。彼等の運命にまつわってる陰影のことを考えていた。話は数年前のことであったが、未来長く尾を引くもののように感じられた。その上、村田の話に洩れた何かが、より重大な何かが、実際にはあったのではないかという気がした。彼は暗い方へ暗い方へと想像を向けていった。殊に保子に就てそうだった。彼女が深い傷を心に負って、一人ひそかに苦しんでいる、そういう風に想像したかった。吉川の死が自殺の死であって、而も直接に保子と何等かの関係がある、そういう風に想像したかった。そして、この想像が自分の心に甘えていることを、周平は意識した。然し何故にそうであるかをつきとめない単なる意識だったから、少しも想像を抑制する力にはならなかった。
 悲痛な実は甘いいろんな想像にうみ疲れると、彼の頭の中には、隆吉の姿がしつこく浮び出て来た。頭の大きなわりに細《ほっ》そりとした体躯、凸額《おでこ》の中から睥めるように物を見る眼、小鼻の小さな高い鼻、細い腕、長い指、それらが変に不気味だった。きっとしまった口、恰好のよい長い顎、すらりとした頸筋、笑う時に出来る左頬の片笑靨、それらが如何にも可愛かった。平素何とも思わなかった隆吉の姿から、今その不気味な点と可愛い点とが、はっきり二つに分れて周平の頭に映じた。彼は愛憎の念に迷った。
 深く考えに沈みながら歩いていると、ばさりと音を立てて足に触れたものがあった。不意だった。ぞっと身体が悚《すく》んだ。寂しい通りに、軒灯の光りが淡く流れていた。青葉をつけた木の枝が一本落ちてる中に片足を踏み込んでるのだった。足を抜こうとすると、ばさばさと音がして枝が一歩ついてきた。またぞっとした。やけに枝葉を払いのけて、五六歩足を早めた。冷たい汗が腋の下に流れていた。
 彼はつとめて平静に返ろうとした。けれども、何かに追い立てられてるような不安さが消えなかった。そのことに気を取られているうちに、いつのまにか自分の下宿の前まで来ていた。つと中にはいった。喉《のど》が渇いていた。面倒くさいので、洗面所へ行ってそこの水道の水を飲んだ。
 自分の室にはいると、すぐに寝てしまった。遠くでするような軽い頭痛を覚えた。頭痛の合間合間に彼は、保子のことを縋るようにして考えた。悲しげに微笑みかけてくれるやさしい姿だった。
 然し、朝になると彼は、もうその幻に浸ることが出来なかった。清純な一徹な光りに澄みながら底に謎を含んだような彼女の眼が、じっと彼を眺めていた。彼は心の据え場に困った。

     八

「井上さん、あなたはこの頃何だか様子が変よ。心配事でもあるの
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