も彼は、知らず識らず酒杯の方へ引きつけられていった。金があると気が大きくなった。金がなければ野村や其他の知人から五円十円と借り歩いた。無一文の時には、友人の誰かが何とかしてくれた。
 彼は次第に、村田や其他の友人と近しくなっていった。あらゆる点で便宜だった。金の融通もついたし、面白くもあった。横田の書斎での真面目くさった彼等は厭だったが、酒杯の間にはめを外した彼等は愉快だった。彼等の方でも新米《しんまい》の周平を面白半分に引廻した。
「おい、井上、今晩探険に出かけないか。」
 がやがやした騒ぎが静まると、彼等は興味の種を探すようにしてそう呼びかけた。
 周平はどんよりした眼を見据えて黙っていた。
「井上は駄目さ。」と村田が云った。「北極も南極も嫌いで、なまぬるい温帯が好きなんだから。熱帯ならなおいいかも知れないが、そんなのは一寸手が届かない形でね。」
 温帯というのは、素人《しろうと》とも玄人《くろうと》ともつかない女給仕《ウェートレス》連中のことだった。
 そして実際彼女等のうちには、特殊な意味で深く周平の心を惹きつける者が一人居た。

     三十一

 電車道から奥へはいってる可なり広い横町が、他の裏通りと直角に交叉して斜左へ曲ってる、その角の所に、蓬莱亭という緑色に塗られた洋館があった。階下がカフェーになっていて、二階がレストーランだった。その上に、後から建て増した狭い三階がついていて、表からは塔のように見えていた。――その家に、お清《きよ》という女中が居た。
 背の高い痩せた女だった。取りたてていうほどの容姿《きりょう》ではなかったが、一寸印象を与える顔立だった。顔の下半分が可愛かった。少し尖り気味の頤に終ってる頬の線が、強いて結んだような小さい口の横で、ぽつりと肉の膨らみを見せて、甘ったるい言葉つきをしそうな若々しさがあった。にも拘らず、顔の上半分が妙に老けていて、骨っぽい額に曇りを帯び、蟀谷《こめかみ》の皮膚がゆるんで皺を寄せていた。鼻と眼とに特長があった。さほど高くない鼻だったが、円みを持った眉根まですっと通っていた。黒目の小さな二重眼瞼《ふたえまぶた》の眼が絶えず敏活に働いて、捉え難い閃きを放っていた。
 そういう彼女の顔立をいつのまに覚えてしまったか、周平は自分でも知らなかった。彼や彼の仲間は、そのカフェーへ度々行きはしなかった。二階の料理を食べに来る客が可なりあったし、よく三階へ上ってゆく常連もあったので、階下の方は自然と閑却されがちで、多少不愉快だった。カフェー専門の心易い家で騒ぐ方が、よほど面白かった。けれど……。
 或る時、周平は二三の友人と共に、竹内から其処へまた引張ってゆかれた。竹内は酔っ払っていた。それでも飲み直した。「おい酒だ。」と竹内は叫んで、空になった桜正宗の二合瓶を打ち振った。それを女中共は笑いながら向うから眺めていて、更に取合わなかった。そこへ、二階からお清が下りてきた。竹内はその方へ瓶を振ってみせた。お清は階段の下に一寸立ち止って、じっとこちらを眺めたが、黙ったまま首を振った。その時の彼女の眼付が、保子そっくりだった。と周平が思ったのは瞬間で、彼女はそっと歩み寄ってきて竹内に云った。
「あなたはもうお止しなさい、酔うと癖が悪くていけないから。他の方には差上げるわ。」そして彼女は周平の方をじっと見た。「あなたはいくら飲んでも大丈夫らしいわね。」
 周平はその調子に変な気がした。然し彼が更に驚いたのは、竹内がお清と非常に懇意らしいことと、皆がそれを別に怪しんでもいないらしいことであった。
 竹内はどちらかというと、周平や村田などの仲間ではなかった。勿論、彼等と交際はしていたし、水曜日の横田の書斎へも二三度顔を出したことはあったが、学校を途中で止して、文士連中の臀にばかりくっついて歩いていたので、自然と彼の生活はその大部分が、彼等の視野の外にはみ出していた。いつもこてこてと髪をなでつけて、金口《きんぐち》の煙草を吹かしていた。
 周平は竹内とお清との間について、我にもない一種の反感の念から、一寸好奇心をそそられた。蓬莱亭から出て帰り途で、彼は竹内に尋ねた。
「君はあの家へ屡々行くんですか。」
「なぜ?」
「だいぶ女中達と懇意なようだから。」
 竹内が何か云おうとしてるまに、他の者がくすりと笑った。それで竹内はあははと大声に笑い出した。
 周平は変にすっぽかされた気持になった。
 やがて竹内は、吸いさしの煙草を強く地面に抛りつけて、ぱっと散る火の粉を見やりながら云った。
「懇意はよかったな。何とかで……虐待されて懇意かな、下手な川柳にでもありそうだ。」そして彼は急に周平の方を向いた。「君は又いやに水を向けられてたじゃないか……あのお清にさ。だがあんなのは止し給え。女中頭って格で威張りくさ
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