ゃいよ。先生には私があとで云っとくから。」
周平はぼんやり立ち上った。何だか追い立てられてるような気持になった。二階に上っていい加減な書物を一冊取ってきた。玄関で、彼は眼を伏せながら、保子に一つお辞儀をした。
十二
周平は保子の許を離れて初めて、ほっと息がつけた。そして、そういう自分自身が忌々《いまいま》しかった。こういう状態は堪らないと思った。此度の機会には、真正面から保子に凡てをぶちまけてやろうと決心した。
然しその決心も、次の機会へ機会へと延されていった。彼は保子の前へ出ると、少しも頭の上らない自分自身を見出した。焦慮の余り顔を伏せてる彼に対して、保子の眼は、或は揶揄するような、或は庇護するような、或は甘やかすような、或は探るような、或はしみじみとした温情の、その時折の色を浮べた。彼はその何れを本当だとして捉えていいか分らなかった。
彼の心は益々焦れて来た。何もかも保子へ告白してさっぱりしたいという願いが、益々強くなった。然し、頭の中でその言葉を考えてみると、問題はただ吉川のこときりなかった。数年前に死んだ吉川のことなんか、実はどうでもいい筈だったのだ!
周平はそれに気づいた時、惘然としてしまった。何だか幻をばかり見続けてきたような気がした。ふり返って考えると、吉川の写真のことや隆吉に関する日記のことなどが、今更に思い出された。その時の保子の態度に、一人勝手な推察を逞うしたことが、我ながら馬鹿々々しかった。吉川のことなんか保子にとっては何でもないことだ、そう解釈すれば、万事が平易に片付くようだった。
周平は夢から醒めたような気がして、街路を歩き廻ったり、郊外に出てみたりした。所が、そういう彼の心を新たな不安がふっと掠めた。
吉川のことにあんなに拘泥したのは、他に理由がありはしなかったのか? と彼は自ら反問してみた。吉川のことを頭から取去っても、保子に対する気持は、前と少しも変りがなかった。してみると、表面だけ吉川のことを借りてきて、実は自分自身のことを焦慮していたのではあるまいか。知らず識らずのうちに、内心では保子を恋したのではあるまいか?……そうだとは、いくら何でもいい得なかった。そうでないとも、一寸断定しかねた。
一方にまた、保子の気持も彼には分らなかった。彼に対して彼女が心のうちに懐いてるものは、愛であるようにも、遊戯である
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