机の上には小形の原稿用紙を綴《と》じたのがのっていた。周平は眼を見張った。
「奥さんは小説を書くんですか。」
「まさか。」と云って保子は笑った。「これ私の日記帳よ。」
「日記をつけるんですか。」
「ええ。」そして保子は急に真面目になった。「日記をつけるのは、殊に女にはためになると横田が云うものだから、ためしにつけてるのよ。でも、人に見られると、思ったことが書けないから、ある時期までは横田にも見せないことにしてるわ。……随分面白いことがあってよ。内密《ないしょ》で一寸読んでみましょうか。」
「内密で読むったって、奥さんが御自分で書いたんでしょう。」
「ええ。だけど人に洩してはいけないわよ。」
「大丈夫ですよ。」
 保子はいい加減の所を披いて読み始めた。

 水島さんがいらっしゃる――(あなた水島さんを御存じね……ええ、画家よ)――水島さんがいらっしゃる。夕御飯を出す。お酒も出す。いろいろ面白い話をなさる。そのうちに、女がコケットリーを失うのは何時だと思う、と仰しゃる。さあ……と横田が考えてると、それは母親になって母親としての自覚を得る時からだ、とのお説。然し人妻になってからもだいぶ失うものではないかしら、と横田がいう。すると水島さんは、そんなことはない、子供のない細君は処女と同じ位にコケッティッシュだと仰しゃる。そして――(あら、大変なことが書いてあるわ)そして、君の細君もその例に洩れないんだと。すると横田が云うには、保子の態度はコケッティッシュだが、心はヒロイックだって。そうですかって水島さんが私にお聞きなさるので、私は、そのどちらでもない、フーリッシュでしょうよ、と答えてやった。それで大笑いをした。

 読んでしまってから保子は、周平の顔を見て「どう?」というような眼付をした。周平は何と云っていいか分らなかった。頭では馬鹿々々しいと思いながら、心では真面目になっていた。
「も少し読んでみましょうか。それとも、もう聞きたくないの?」と保子は尋ねた。
「聞かして下さい。初めからすっかりでもよござんす。」と周平は答えた。
「慾ばってるわね。じゃあも一つきり。なるたけ長い所を読んでみましょう。」
 そして彼女はぱらぱらと頁をめくった。

 今日、隆吉が学校から帰ってきて、何だか考え込んでる様子。碌に口も利かないで悄れている。――(ああ、これはあなたの参考にもなること
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