うなんだ、君の此度のことを、横田さんが知らない訳があるものか。だが、君が特別に奥さんから贔屓《ひいき》にされてるという自惚があるのなら、問題はまた別だがね。」
周平は痛い所をちくりと刺されたような気がした。それだけにまた、不快な厭な気持になった。彼は黙っていた。
村田は彼の様子をじろりと眺めたが、急に話題を転じた。
「君、横田さんの野心……抱負と云った方が本当かな、それを君は……。」
丁度その時、二人は或る肉屋の前を通りかかった。村田は足を止めた。
「ここで肉でもつっつこうじゃないか。」
二人は中にはいった。
六
村田は大酒家だった。周平も可なりいける方だった。二人は飯を忘れて、しきりに杯を重ねた。暑くなると障子を開け放った。もうすっかり暮れていた。庭の植込《うえこみ》のなかに淡い柱灯がともっていた。凸凹をなした庭の窪みに、小石を敷いた大きな空池があって、風に揺ぐ植込の茂みの間に、ちらちら見えていた。縁側から覗くと、谷間のような感じだった。その方を眺めながら、取留めもない話をしてるうちに、二人は可なり酔ってしまった。新らしく銚子を持ってくる女中が、肉の鍋に何度も割下を注《さ》していってくれた。
「君と酒を飲むのは暫くぶりだね」と村田は縁側の柱によりかかりながら云った。
周平は彼の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。あの頃短い五分刈だった村田の髪は、今は長く伸されて後ろに掻き上げられていた。苦しい境遇に陥った自分の身が顧みられた。それと共に、横田氏等の同情がしみじみと感じられてきた。
彼は突然云い出した。
「君、このまま黙っていていいだろうね。」
「何を!」
「横田さんと奥さんとに……。」
「いいさ。好意は黙って受けるものだよ。君は余り神経質でいけないんだ。僕だったら、初めっから奥さんにも横田さんにもお礼なんか云わないね。」
受けるものは黙って受けよ――場合によっては貪っても構わない――というのが村田の主義だった。或る好意を受ける時、昔は礼を云うのが道徳だった。現代では、礼を云わないのが道徳なのだ。現代人の微細な神経は、施す好意を無条件で黙って受けられる方が、より多く施し甲斐を感ずるものだ。受ける方から云えば、口先の感謝で心の負目《おいめ》を軽くしようとするのは、卑怯な態度である。
「君のようにいやにこだわるのは、全く時
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