が、堪えられないような気がした。金入の底に皺くちゃな五十錢紙幣が六七枚残ってるのを幸に、眼についたカフェーに寄って、ウイスキーを五六杯のんだ。髪を長く伸ばした着流しの客が一人居るきりで、電燈がついたばかりの室の中は静かだった。女給仕と何かひそひそ話し合ってる客の方に背中を向けて、彼は壁の面をじっと見つめた。
 それが、彼の気持へぴたりときた。
 ぶつかることがつきぬけることのように思っていた彼は、ぶつかってみて初めて、つきぬけられない壁があるのを知った。保子と隆吉との間にまごまごしてる自分は、やけに頭を壁にぶっつけてるのと同じだった。而も彼は、未だに保子を恋してるのかどうか自ら分らなくなっていた。
 酒に痲痺した頭で考えると、凡てが渦を巻いて入り乱れ、その渦が壁の中にすーっと吸い込まれて、じっと壁に面してる自分の姿のみが残った。それがしいんと静まり返った。息苦しくて恐ろしかった。自分の心が何処まで転々してゆくか不安だった。
 彼はカフェーを飛び出して、夜になった街路を長い間歩き廻った。闇黒のうちに点々と浮出してる街灯の光りと、酒の酔からくる悲壮な気持とが、凡てを夢のような惑わしのうちに包んでくれた。そして彼は、ただ現在の生をのみ慈《いつく》しむ涙ぐましい心を懐いて、袷の肌にも寒いほどの夜更けに、火種さえない下宿の四疊半へ、ぼんやり帰っていった。薄い布団にくるまって寝るのまでが、却て天の恵であるような気がした。
 然し翌朝になって、鋭くはあるが妙に弱々しい日の光りで、自分の姿がまざまざと照らし出されると、それが堪らなく淋しい感じがした。そして次の月曜が来る頃までには、自分でどうにも出来ない捨鉢な気持に陥っていた。それを、保子は平然として身近く引きつけて離さなかった。
 彼の頭には時々理智の閃きが過《よぎ》った。――保子からいい加減に弄《もてあそ》ばれてるのではないかしら? ――保子は、敢て多少の危険を冒してまで、自分を吉川の轍から救おうとしてるのではないかしら? ――或は、保子自身も自分と同じ心の苦闘をしてるのではないかしら?
 そして右の仮定は、初めの二つが余りに苦々《にがにが》しいものであると共に、後の一つは余りに自惚れすぎた胸糞のわるいものだった。彼はその間の去就に迷った。さりとて、保子と顔を合してみると、その点を突き込んでゆく勇気はなかった。
 彼は隆吉の方へ
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