刺した。然し彼は真剣な応対をするのが恐ろしかった。強いて空嘯いてみた。
「さあどうですか。」
「それでいいと思ってるの。」
「身を捨ててこそ何とかいうこともありますから……。」
「井上さん!」
 保子はそう云って屹《きっ》となったが、唇をかすかに震わしたまま黙ってしまった。視線をちらと乱して、しまいにはそれを膝の上に落した。
「私は、」と周平は云った、「自分のことはよく分ってるつもりです。何にもごまかしてやしません。そして、お約束を立派に守ってゆく……守ってゆけるつもりでいます。」
「約束を守りさえすれば、他のことはどうでもいいというんですか。」
 まるで怒鳴りつけるような調子だった。彼には何で彼女が苛立ってるのか見当がつかなかった。黙ってると、彼女はまた云った。
「いつまでも過ぎ去ったことにこだわっていて、表面《うわべ》だけ平気な顔をしているのは、自分で自分をごまかしてるのと同じだわ。」
 周平は驚いて彼女の顔を見返した。――そういうごまかし方をしてるのは彼女の方ではなかったか。表面だけ平気な顔をして、彼を方々へ引張り廻しながら、内心では変に苛立ったり冷淡を装ったりするのは、自らごまかしてるのではないか。今日だって彼女の方から変に絡んできたのではないか。――彼女は少し歪めがちに唇をきっと結んで、眉根に小さな皺を寄せている。すっと刷いた眉がいつもより殊に美しい……と思う自分の心に周平は自ら慴えた。
「もう何にも云わないで下さい。これから真面目な途を進みますから。」と彼は誓った。
「そう。」と保子は気の無さそうな返辞をして、何やら考え込んでしまった。
 その意外な変化に、周平はまた驚かされた。そして次の瞬間には、頬の筋肉が硬ばって泣き顔になりそうなのを、じっと押し堪えた。頭の中がしいんと静まり返った。
 隆吉が戻ってくると、彼は気分が悪いと断って、逃げるように辞し去った。じかに迫ってくる露《あらわ》な保子の眼付と、疑問を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ変に鋭い隆吉の眼付とに、彼は更に脅かされた。

     二十九

 西の空に屯《たむろ》してる雲のために華かなるべき残照が遮られてる、ほろろ寒い佗しい秋の夕暮だった。周平は足を早めて下宿の方へ帰りかけたが、寂しいがらんとした自分の室が頭に映ると、今の苦しい心を其処へ持ち込むの
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