んが死んだ時のことを覚えてるの」と彼は云いなおした。
「よく覚えてない。」と隆吉は答えた。「頭の痛気で死んだんだって。本当?」
 周平はただ首肯《うなず》いた。
「井上さんはお父さんのことをよく知ってるの。知ってたら僕に聞かしてくれない? 誰も聞かしてくれる者がないんだもの。叔母さんに尋ねると、恐い眼付をするんだよ。」
 周平はぎくりとした。保子の言葉が思い出された。黙り込んでじっとしてると、隆吉がそっと覗き込んできた。そして、もういつのまにか片頬に軽い笑靨を浮べていた。周平はそれを見て、変にはぐらかされた気持になった。子供を相手に何をしてるんだ! と自ら浴せかけた。もうどうでもいいことだ、と自ら云った。
 然し、隆吉の祖母の定子に偶然の機会で紹介せられた時は、さすがに胸の震えを禁ずることが出来なかった。

     二十八

 それは全く偶然の機会だった。
 或る日周平がやって行くと、女中が慌しく玄関に出て来た。そして、茶の間の方へ彼を導いた。何だか様子が変だったので彼は尋ねた。
「どうしたんだい、今日は。」
「お客様ですよ。」
「そう。じゃあ隆ちゃんは?」
「坊ちゃまもお座敷の方ですが、一寸お待ちなさいよ、聞いてきますから。」
 周平は一人茶の間にぼんやり待たせられた。暫くすると女中が戻って来た。
「すぐこちらへお出で下さいって。」
「僕に?」
「ええ。坊ちゃまのお祖母様《ばあさま》がいらっしゃるんですよ。」
 周平は立上ったが、一寸躊躇せられた。それでも女中がずんずん向うへ行くので、その後についていった。襖のこちらで足を止めると、「おはいりなさい。」と云う保子の声がした。彼はつかつかと中にはいって、誰にともなくお辞儀をした。
 保子と向合って、米琉絣の対《つい》の羽織と着物とをつけた六十足らずの、上品なお婆さんが坐っていた。
「井上さん、」と保子は云った。「この方が隆吉のお祖母さんですよ。」
 周平が何とか挨拶をしようと思ってるまに、向うから先を越された。
「隆吉の祖母の定子《さだこ》でございます。隆吉が始終お世話になっていますそうで、一度お目にかかりたいと思っておりましたが、自由にならない身でございますもので……。」
 周平はただ低くお辞儀をした。言葉の調子や様子などからいい印象を受けた。それでも、何とか云おうとしたがその言葉が喉につかえて出なかった。横の方
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