く帰りかけると、もう遅いから泊《とま》っていらっしゃいと保子が云った。いや帰りますと彼は答えた。そんなら幾日に来て頂戴と保子は云った。その日に障子を張りかえるのだった。彼は約束通りにやって来た。女中達と一緒になって、障子の骨を洗ったり紙を張ったりした。庭の松の元気がなさそうなのを見ると、彼は自分からその青葉を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]りに来た。そのお礼に寄席へ連れて行かれた。横田と隆吉とを加えて四人で行った。帰りに彼は家の前まで送ってきた。お茶を飲んでいらっしゃいと無理に引入れられた。
然し彼は、夜遅くなっても決して泊っていかなかった。また、横田の所へ種々な人が集まる水曜には来なかった。
「水曜日にもちといらっしゃいよ」と保子は云った。
「いやです。」と彼は答えた。
「なぜ?」
問われてみると、なぜだか彼は自分にもはっきり分らなかった。
「なぜ厭なの。」と保子はまた尋ねてきた。
周平は一寸考えてから答えた。
「いろんな人が来て、芸術だの思想だのというような議論が出るから厭なんです。真の芸術家は芸術を論ぜず、真の思想家は思想を論じないものです。」
「だって真面目な議論ではなくて、冗談半分の話だから、いいじゃないの。」
「なおいけません。人は真面目に何かを信じてる時、それを冗談半分に警句やなんかで片付けられるものではありません。下らない話で気を紛らせるものではありません。」
「そんなでは、うっかり口も利けないことになるのね。」
「だから私は一人で黙ってるのが好きなんです。」
そして彼は、縁側に腰掛けたり室の中に寝転んだりして、いつまでも黙っていた。保子から時々じっと眺められるのを感じても、やはり身を動かさなかった。
「井上さん、」と保子は暫くして呼びかけた、「動物園か活動にでも行ってみませんか。」
「ええ、行ってもよござんす。どうせ何かで時間をつぶさなくちゃならないから。」
「じゃあ止すわ。」と保子は吐き出すようにして云った。
周平は顔を挙げた。見ると、保子は冷かに顔を引緊めて、何かを内心で苛立ってるらしかった。
「なぜです。」と彼は尋ねた。
「だって、人が折角誘うのに、どうせ何かで時間をつぶすのだからって挨拶があるものですか。時間つぶしの相手なんか真平《まっぴら》よ。」
「じゃあ時間つぶしというのを取消しましょう。」
「取消したって同じよ
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