しようと水谷から度々云ってきた時、野村は右の事情をうち明けて、負債が無くなるまで下宿住居をするつもりだと断ったそうである。
周平は更にまじまじと野村の顔を見つめた。三疊の控室までついてる上等の座敷を占領し、相当な調度《ちょうど》の類から洋服箪笥まで備え、艶やかに光ってる額の上の髪を、毎朝二十分もかかって綺麗に分けてる野村に、そんな負債があろうとは夢にも思わなかったのである。そして、身の廻りをきちんと整えて、下宿の室に呑気そうに煙草をくゆらしてる野村の気持が、彼には分らなくなってきた。
「そんなものは、」と彼は云った、「早く返してしまったらいいじゃありませんか。」
「それがねえ、なかなかそうはいかないものですよ。急がば廻れっていうこともあるし、多少の体面もつくろってゆかなければならないですからね。……それは兎に角として、」と彼は俄に真面目な調子になった、「いくら困っても借金をするものではありません。今日あるだけのものでやってゆくという主義でなければ駄目です。」
周平はまた黙って彼の顔を眺めた。
「所で、君のことですが、」と野村は云い進んだ、「しっかりした覚悟を要すると思うんです。水谷さんの方はあの通りだし、僕も右のような事情で余裕がないものですから、自分で学費を稼ぎ出すという方針を立てなければなりませんよ。それは苦しいことには違いないが、なに全部稼がなくとも、不足の分位ならまた、水谷さんからの不時の送金もあるでしょうし、場合によっては僕が立替えてあげてもいいです。ただ、しっかりした決心だけは必要です。」
「それは初めから覚悟していたことですから……。」と周平は云った。
「勿論あの時もそうだったでしょうが、此度は実際の問題になったのですからね。……そして、何か仕事の心当りでもありますか。」
問われてみると、周平は何もなかった。殆んど見当さえつかなかった。その様子を野村は暫く窺っていたが、やがて云い出した。
「実は、水谷さんの手紙を見た時、僕はすぐに今後のことを考えてみたのです。横田さんの家へ君を訪ねていった時、その相談をするつもりだったのが、何か考え耽ってるような君の様子を見て、云い出しかねたんです。そして、知人に尋ねてみた所が、仕事が一つあるにはあるんですがね、極めて割の悪い仕事だが、どうです、やってみますか。」
それは、或る書物の飜訳だった。野村と同じ銀行に
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