出てる人で、労働問題を少し研究してる人があった。そして最近、「労働組合と労働者」と題する英語の書物を手に入れた。労働組合なるものの本質を論じたもので、各国の組合が引例してあった。ドイツやフランスやイタリーなどの言葉が出て来た。その人は英語きり知らないので可なり困っていた。そこへ野村から井上の話があった。それならば書物を訳して貰ってもいいということになった。然し、英語以外の言葉さえ訳して貰えば用は足りるのを、半ば義侠的に書物全体の訳を頼むのだから、報酬は極めて少なかった。三百頁足らずの書物で、一頁五十錢位の見当だとのことだった。その代り期日の制限はなかった。
「君は大学に毎日通ってるのだから、どの国語でも尋ねる便宜はあるでしょう。それに、経済上の専門語だって、その人に意味が通じさえすればいいのだから、いい加減に訳して大丈夫です。隙にあかしてやってみませんか。報酬の少いのが気の毒ですが。」
 周平は自分にやれるかどうか不安だったが、兎も角もという条件で承諾した。書物はすぐに野村から送って貰うことにした。
「そのうちにはもっといい仕事もあるだろうから、気をつけて置きましょう。」
「お願いします。」と周平は云った。
 やがて周平が帰りかけようとすると、野村は思い出したように尋ねかけてきた。
「君は先刻《さっき》、横田さんの方を断るかも知れないと云ったが、何かあったんですか。」
「いいえ、別に……。」そして彼は一寸言葉を途切らした。「ただ、頭のいい子だから無駄なことをしてるような気がするだけです。」
「そんなら君、断ることは少しもないですよ、元々向うの好意から出たのだから。」
「ええ。」と周平は曖昧な返辞をした。
 立ち上った時一寸呼び止められて、そこいらへお茶でも飲みに行こうかと誘われたのを、彼は断って、妙に慌しいような気持で辞し去った。
「この次一緒に飯でも食いながらゆっくり話しましょう。」と野村は彼を送って階段を下りながら云っていた。

     二十四

 周平は狭苦しい下宿の四疊半に身を投げ出し、両の拳《こぶし》を握りしめて深く息をした。
 確かめておくつもりの自分の生活は、この上もなく明かになった訳だった。他からの補助は一切期待出来なくて、自分の腕一つに頼るのみとなった。手に触れるものは凡てを引掴んでいこう、と彼は決心した。その決心の下から、世を呪い人を呪いたい気
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