けるといっても、机と小さな本立と柳行李とだけだった。それが済むともう何もすることがなかった。みすぼらしい身の廻りが淋しかった。手拭を下げて銭湯に行ってきた。それから、室の中に寝転んで一日を過した。二時頃から窓に一杯西日がさした。その光が夕方俄に陰って、空が曇ってきた。そして暗い夜となった。空の中が蒸暑くて息苦しかった。
周平は身を動かすのが堪らないような気がした。身を動かす度に心の中の空しい寂寞さがゆらゆらと揺《ゆら》いで、自分の身体を包み込んでしまいそうだった。じっとしていたかった。何物にもそっと手を触れないでいたかった。
むりに頭の働きを押えつけ、凡てを失ったという気持だけを懐いて、彼は早くから床にはいった。そしてぐっすり眠った。
その眠りが、翌日になってもまた彼を囚えた。朝食後じっと机にもたれていると、いつのまにかうとうととしていた。ほっと眼を覚して、此度は寝転んでみたが、やはりいつしかうとうととしていた。眼を覚してるだけの気力が無くなったかのようだった。しまいに彼は、そのだだ白い眠りの中に身を投げ出した。
そういう睡魔の下から、保子のことが影絵のように浮き上ってきた。うつらうつらとした夢心地の薄暗い背景から、彼女の澄み切った眼がじっとこちらを覗いていた。周平は云い知れぬ心の戦《おのの》きを感じた。彼女の前にひれ伏したい気持ともはやそれも許されないという意識とが、彼のうちで入り乱れた。彼は彼女との約束を思い出した。彼女の最後の言葉がはっきり耳に響いてきた。
彼は自ら云った。「もう万事終ったのだ。彼女の寛容に、このうえ甘えることはそれを涜すことなのだ。自分は自分一人の途を進もう。彼女との約束を心に秘めて、それを力として、自分一人の途を進もう。」
それは何とも云えない悲壮な感激だった。周平は初めて眠りから覚めたような心地で、自分のまわりを見廻した。貧しい淋しい室一つが自分のものだった。
彼は立ち上って腕を打ち振った。泣きたいような気持が寄せてくるのを強いて郤けた。そして野村を訪れてみた。これからの生活を確めておくつもりだった。
野村は丁度その晩家に居た。
「やあ珍らしいですね。どうしたんです、暫く来なかったが。何か面白いことでもあったですか。」
そういう風に彼は周平を迎えてじっと顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。
周平は妙に
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