、周平はひしと感じた。彼はありのまま答えた。
「お別れする前にあなたへ一言申上げたいことがあったのです。それを書こうとしていました。」
「それは書けて?」
「書けません。」
「そう。」
 しいんとなった。やがて彼女は云った。
「あなたは明日《あした》下宿へ帰るつもりでしょう。」
「ええ。」
「そして?」
 周平は眼付でその意味を尋ねた。
「そしてこの家へは?」
「もう参らないつもりです。」
「そう。」と彼女はまた云った。
 底の知れないような沈黙が落ちてきた。周平は彼女の顔を見戍った[#「見戍った」は底本では「見戌った」]。蒼白い引緊った頬と円みを持った眼瞼の上の美しい眉とが、人の心を惹くやさしみを湛えてると共に口角のぽつりとした凹みと曇りのない眼の光りとが、近づき難い威を示していた。その両方からくる感じの何れに就いていいかを、彼は迷った。迷ってるうちに、深い沈黙が恐ろしくなった。心の底まで彼女の手中に握られてゆくのを感じた。身動きが出来なかった。彼は眼を伏せて、彼女の艶やかな小さな手の爪を見つめた。
「あなたは先刻私からあんなに怒られたのを、口惜しいと思って?」
「いいえ、当然だと思っています。」と彼は答えた。
「嘘仰しゃい!」と彼女は一言でそれをうち消した。「弁解したいことがあるでしょう。」
「ありません。」と彼は答えた。
「あるけれど出来ないのでしょう。」
 彼ははっとして顔を挙げた。それを瞬間に彼女は口早に押被《おっかぶ》せた。
「先刻のことはみんな取消してあげるから、その代り、私の云う通り約束なさいよ。」
 彼はもう云われるままになる外はないのを知った。無言のうちに首肯《うなず》いた。
「私の日記を探したことや、吉川さんの日記を見たことを、誰にも決して云わないと誓えて?」それから一寸間が置かれた。
「そして、これからも今迄通りにしてゆくと誓えて?」
 彼は何にも考えなかった。石のように固くなりながら答えた。
「誓います。」
「確かね。」
「ええ。」
「もう過ぎ去ったことは何にも云わないことにするのよ。明日下宿に帰してあげるから、今の誓いを守れるように一人でよくお考えなさい。……分って?」
 彼は胸の奥底まで突き動かされた。頭を次第に低く垂れていると、俄に涙が出てきた。頬から膝へはらはらと流れた。見開いた眼が涙で一杯になって、何にも見えなくなった。彼は危く我
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