りと浮出される……。
周平は堪らなく淋しい気になった。万事を放擲するつもりではいたが、やはり、何かを、やさしい眼付を、心の底に懐いて去りたかった。それが得られないならば、それを求めてることだけでも、せめて知って貰いたかった。彼女の無理解な怒りだけを荷って去ることは、余りに堪え難かった。彼女に――横田夫人にではなく直接彼女に、自分の思いを一言伝えたかった。それで更に彼女の怒りを買うなら、それは正当な怒りとして喜んで受けよう。
彼は机に向って、紙とペンとを前にして考え込んだ。到底口では云えないその文句を、彼女の前に投げ出して、それを読んだ時の彼女の眼付を――たといどんな眼付であろうとも――心に秘めて、黙って立去るつもりだった。
然し、それは口で云えないと同様に、文字にもなかなか現わせなかった。長い説明をはぶいて数語で尽したかっただけに、猶更困難だった。二三の言葉を頭に浮べたが、どれも皆胸にはっきりうつらないものばかりだった。考えあぐんでるうちに、彼は漠然とした疑念を覚えた。彼女に対する自分の気持を、彼は今迄恋だとばかり思い込んでいたが、いざそれをはっきりした文字にしようとすると、恋というのではよくあてはまらなかった。恋、愛、思慕……どれもこれもいけなかった。それらの一部分ずつ含んだ形体《えたい》の知れない感情だった。姉として、異性として、女友達として、慰安者として、保護者として……なつかしみ慕う、というばかりでもなかった。彼は自分の感情にそぐわない多くの言葉を、次から次へと脳裡に迎え送りながら、云い知れぬ迷いのうちに陥っていった。
どれ位たったか分らなかったが、その時間の終りに、彼は飛び上らんばかりに喫驚した。人の気配《けはい》がしたので初めて我に返ってふり向くと、其処に、階段の上り口から一歩足を踏み入れて、保子がつっ立っていたのである。彼は恐怖に近い驚きを感じた。保子の顔は蝋のように蒼白く輝いていた。
あたりは不気味なほどひっそりしていた。
保子はちらりと室の中を見廻して、二三歩はいり込んで来、周平から少し間を置いて坐った。
「今迄何をしていたの?」と彼女は云った。語尾が整然としていた。
周平は切めの驚きからまださめずに、息を凝らしていた。急に言葉も出せなかった。
「え、何をしていたの? それとも云えないの?」
何等のごまかしも許さない彼女の強い気合を
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