面に馥郁と咲き匂ってる木蓮の方へ、私の方へではなく、笑顔を向けるのだった。
 彼女の家に、私は行ったことがない。なぜなら、私は彼女の旦那ではなく、そして彼女には、めったに来ないがとにかく旦那と名のつく人がいた。肉体の関係は当人同士の自由だが、旦那持ちの芸者の家への出入は道義に反する。
 彼女の死は、その道義の関を開いてくれた。私は何の逡巡もなしに、彼女の家の敷居をまたぎ、彼女に別れに行ったが、そこにはもう彼女の肉体は見出せなかった。ただ彼女が、いや彼女の顔があった。白布に覆われたその顔の近くに、白木蓮の花があった。私はその花を眺め、それが心にしみこんだ。そしてはじめて、涙が眼にたまってきた。
 節太い枝先にぽかっと出てる、大きな六花弁の白い花、やさしく訴えるような香り、それが、なにかしら淋しいのだ。――じっと見ていると、桃代によりも寧ろ、喜美子に通うものがある。
 喜美子は加津美で、仲居ともつかず、養女ともつかずわりに気儘な立場にいる。十七八歳の体躯で、痩せ型の方で、色の白い顔は、肉附きも皮膚も薄い感じがして、清楚でそして淋しい。口を利く時、笑う時、長めの小さな糸切歯が唇から覗き出して
前へ 次へ
全26ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング