常のことについては非常に記憶の悪い方だが――Nとは五六度逢ったことを思い出した。電車の中で一度、展覧会で一度、往来で二度ばかり、帝劇の廊下で一度、それから……友人の所で初めて紹介された時や、其後友人の家で出逢ったのなどは、勿論計算に入れないとして……まあ其他にもあったようだ。そしてよく考えて見ると、一寸挨拶をしたきりの対面であったが、それが果してNであったかまたはNNであったか、はっきり区別がつかなくなった。で僕はそれを一々Nに問いただしてみた。すると、展覧会でと往来で一度とはNの記憶にもあったが、帝劇の廊下や電車の中のことは、Nには思い出せないらしかった。そして要するに、何だか訳が分らないことになってしまった。
「それから数日後のことだった。僕は銀座通りで偶然Nに出逢った。挨拶をしておいて、僕は真先に尋ねてみた。『あなたはN君ですね。』向うでは笑いながら答えた。『本当のNですよ。名前を聞かなきゃ分らないようでは困りますね。』それで僕は初めて安心したものだ。
「実際君、名前を聞いて初めてその人だと安心するようでは困ることだ。然しNに対しては、僕は妙に怖気がついてしまった。同じような顔付
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