白日夢
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)面《おもて》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22]
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 晩春の頃だった。
 私達――私と妻と男の児と女中との四人――は新らしい住居へ移転した。まだ道具もそう多くはなかったので、五六日で家の中は一通り片付いて、私はほっとした気持で、縁側に腰掛けて煙草を吹かしながら、庭の面《おもて》をぼんやり眺めてみた。庭と云っても僅かに六七坪のものだったが、二三本の植込の木下に、鮮かな緑の雑草が、ぽつりぽつりと萠え出していた。それを見ていると、私の心は晴れやかになった。新らしい住居と共に新らしい幸福がやってくる、といったような思いが湧いてきた。そして向うの室にいた妻を呼びかけて、実際そう口に出してまで云った。
「ええ、」と妻は答えた、「今月からあなたの月給がふえるかも知れませんわ。」
「馬鹿!」
 心持ち高い声で私は叱りつけたが、眼付で笑ってるのをどうすることも出来なかった。
 暫くすると、此度は妻の方から云い出した。
「前のよりはいい家だけれど、欲を云えば、庭がも少し広くって、そして一軒建だと、ほんとにいいんですけれど……。」
「まあそれくらい我慢するさ。贅沢を云えばきりがないから。」
 二階が六畳と三畳、階下が六畳二つ、それに二畳の玄関と三畳の女中室とがついていて、間取りもわりによく、たいして古汚くもなかったので、私達にはまあ相当な家だった。が実際の所、妻が云う通りに、往来から板塀で仕切られてる六七坪の庭が、何だか妙に窮屈だったし、それから殊に、隣りの家と棟続き壁一重越しに、全く同じ形に建てられてるのが、余りいい気持ではなかった。と云って、うっかり妻の言葉に賛成でもしようものなら、こんなちっぽけな借家住居をしなければならない自分の無能さを、改めて証拠立てることになるので、私はわざと空嘯いて、足ることを知る者は富めり、なんかと、自ら自分に云いきかしてやった。
 そして私はいつしか、不満の点を忘れるともなく頭の外に逐い払って、毎日の勤めに出かけた。妻も其後、家に就ての不満を口にしなかった。そして私達の心は、また生活は、次第に新居へ馴染み落付いていった。
 所が、越してきて二週間ばかりたった頃、或る晩、妻は妙なことを云い出した。
「この家は何だか変な家ですよ。門の開いた音がするから出て行ってみると、誰もいないじゃありませんか。そんなことが何度もあったんです。」
 まさか……と思って私は、女中にも尋ねてみたが、やはりその通りだと云うばかりでなく、実は女中の方がそれに多く出逢ったのだった。
 そんな馬鹿なことがあるものか、とは思ったが、現に二人も証人があってみれば、私がいくら否定しても無駄だった。その上、何となく気にかかってきた。姿の見えない人間が、家の門を出たりはいったりしてるということは、それが荒唐無稽であるだけに一層気味悪いように思い做された。
「では兎に角よく注意しといてごらん、本当だとすれば冗談じゃ済まされないことだから。」
 そして私は、門の戸を調べてみたり、あたりを見廻ったりした。何処にも異状はなかった。
 曖昧なうちに四五日は過ぎた。すると妻は馬鹿馬鹿しい報告を齎した。
「うちの門が開くと思ったのは、どうもお隣りの門が開く音だったらしいんですよ。」
 余り他愛ない話なので、私は妻に小言を云う気にもなれなかった。今迄どうして気付かなかったろうかと怪しまれるほど、それは如何にもありそうなことだった。門から玄関まで、庭の竹垣と路次の板塀との間の切石を敷いた道がわりに長かった。そして隣りの家と自分の家との、同じ造りで同じ鈴のついている門の音が、誤って聞き取られるのは、風向の加減で、或は風がなくとも耳の調子で、至極無理からぬことだった。私は表に出てみて、箱を二つに仕切ったような二軒長屋を、不思議そうに眺めやった。
 そして実際不思議だった。同じ向きで同じ古さで、同じ広さ、同じ恰好、恐らく同じ間取り、二軒続いた板塀からは、どちらも玄関寄りに松が一本と、それよりやや低い檜葉が一本、似寄った枝ぶりを覗かしていた。建築師の一分一厘違わない繩墨で、図面を引かれ拵え上げられた、全く同じな二軒だった。二軒ではあるが、一本の背骨がつきぬけてる、くっついたまま動きの取れぬ長屋だった。
「二軒とも全く同じだね。」
 家にはいって私は妻へそう云った。
「そりゃその筈ですよ、同じ形に建てたんでしょうから。」
 なるほど、この上もなくはっきりした理屈だが、それにしても変だった。妻の話によれば隣家も私と同じような会社員で、私よりは三つ四
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