つ年上らしく、やはり細君と女中とがあり、子供が二人あった。私だって、もう三四年もしたら、それくらいの年配になり、子供もも一人くらいはふえるだろう。そして両方とも、同じくらいの貧乏さらしい。同じような日々を送り、同じように年老いてゆき、同じ程度の苦や楽を嘗め、同じくらいの小金でも残して、同じように死んでゆくことだろう。そして今現に、朝や晩、私の方で茶の間に集って、つましい食事をしている時分には、隣家でも恐らくそうしてることだろう。両方の生活全体が、同じくらいの日の光を受けて、同じくらいの明るさに輝いてることだろう……。
そんなことを考えながら、私は朝夕出勤の出帰りには、有村道夫とある隣家の表札を、可笑しな気持で眺めずにはいられなかった。表札を取り換えて、両方互に入れ代っても、或は何もかもそのままにして、私達が彼等になり、彼等が私達になっても、聊か不都合でも不自然でもなく、お互の生活が今の通りに落付いてゆくかも知れない。
そして晩なんか、食後のぼんやりした頭で、夕刊を読み終えた眼を薄暗い庭の方へやったり、明日の天気模様を見るため狭い空を仰いだりして、少し冷々する縁側に立っていると、隣家の主人もその時、恐らく同じことをしているかも知れない、などと想像をめぐらしてみた。ふと振向いて、子供の布団を取出した押入の唐紙が、そのまま開き忘れられてるのを見ると、押入の中の薄い壁に穴をあけて「有村さん、」と呼んでみたらどんなものだろうか、などと想像してみた。
「おい、」と私は妻に呼びかけた、「隣りとの間の壁を取払ってしまって、一緒に暮したら面白いかも知れないね。」
妻は軽蔑したような薄ら笑いを洩らしたが、暫くして何と思ったか、こんなことを云い出した。
「そりゃ面白いかも知れませんわ。お隣りの奥さんは私より綺麗だから。」
「そして隣りの御主人は、僕よりも綺麗だろうからね。」
「それごらんなさい。損するのは私達ばかりですよ。」
「その代り、隣りの方が金持かも知れない。」
「そりゃ当り前ですわ。私達より長く世の中に……働いてきたんですもの。」
一寸文句につまって、それから俄に見付出された、その「働いてきた」という言葉が可笑しくて、私達は笑い出した。
が実は笑いごとではなくて、擽ったいような不思議なような、変梃な気持だった。而も私は、隣家の人達と一度も顔を合したことがなかった。どうかして顔を見てみたい、というより寧ろ、その生活を覗いてみたい、そんな気がしきりにしてきた。と共にまた、向うから自分達の生活を透し見られてはすまいか、何もかもすっかり聞き取られてはすまいか、そんな不安も一方に萌してきた。互に矛盾した気持ではあるが、それが一緒にこんぐらかって、変に私を囚えてしまった。
「あなたはどうしてそう、お隣りのことばかり気にしていらっしゃるの?」と妻は私に尋ねた。
「余り家の形が似てるからさ。」と私は答えた。
然しそればかりではなかったらしい。そして、その自分にも分らない何かが、やがてはっきり形を現わしてきた。
或る土曜日の晩だった。一度家に帰ってきた所を、四五人の友人と町で夕飯を食いに出かけ、飯だけで済すつもりなのがつい酒になり、酔が廻ると長引いて、それからも一軒寄って飲み直し、皆と別れて一人家の方へ帰ってゆく時には、私はもうすっかり酔っ払っていた。それでも気は確かだった。そして街路に明るくともってる電気や瓦斯の光のように、頭の中も明るく輝き渡っていた。電車の中や大通りにつみ重ってる人の顔が、どれもこれも皆親しみ深くて、そしてまた物珍らしかった。大きな石をめくって、その下に巣くってる蟻共が、驚き騒ぐのを見るように、この都会の人家を中天に巻き上げて、無数の人が右往左往するのを見たならば、さぞ面白いことだろうと、そんなことを考えていた。
空は茫と霞んで、星が淡々しかった。なま温んでる空気が横町にはいると処々に、咽せるような新緑の香を湛えていた。いい気持の晩だった。しっとりと落付いていた。私はいつまでも歩き続けたいのを、家に帰ることが義務ででもあるかのように、遠廻りもせずに帰っていった。
家の近くまで来ると、急に気が弛んだせいか、足がふらふらするのに気付いた。そしてふとよろけかかったのを、手先で門につかまって、立直りざまがらりと引開け、その余勢でぴしゃりと閉めた。そして玄関までの石畳を、前のめりにすたすたと歩いて、格子を勢よく引開けたが、玄関の三和土《たたき》に足がかりを失って、右左によろめいたのをきっかけに、頭の中もふらついて、眼の前のものがごっちゃになった。それでも私は戸惑いをせずに、勝手知った茶の間へ通った。帽子とマントとを脱ぎすてて、次に羽織まで脱ぎ払って、長火鉢の前に腰を下し、先ず一服と煙草を吸ってみた。
所が、妙に勝手が悪かった。
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