あるものだろうか。人間の顔は皆よく似寄ってるものかしら。僕は電車の中で、向う側にずらりと並んでる人の顔を、一々注意して見たことがある。所がどれもこれも皆違ってるね。見違えるほど互によく似た顔というものは、一つだってありはしない。勿論兄弟だの二子《ふたご》だのには、随分よく似た顔もあるだろうが、それだって、見違えるほどのものは少いだろうじゃないか。
「所が僕には前に云ったようなことが度々起るんだ。そしてそれはいつも、僕の心が愉快にのんびりしてる時のことなんだ。君、人間は心が愉快にはずんでる時は、何もかもごっちゃにしたがるものだろうかしら。それともそういう気持は僕一人きりなのかしら。
「或日のことだった。僕は或る友人――かりにBとしておこう――そのBの家へ行こうと思って、電車の停留場まで歩いていった。その時僕は、快活の発作……と云っちゃ変だが、兎に角非常に楽しい気分になっていた。西洋人の子供かのように、軽く足を踊らして人道の縁石の上を歩いていた。すると向うに、一人の知人――かりにNとしておこう――そのNが立っているんだ。僕はつかつかと歩み寄って、軽く会釈したものだ。向うでも会釈を返した。そして僕達はこういう会話をした。――『何処へおいでですか。』――『一寸神田の方まで。』――『そうですか。……僕の家はすぐこの向うですから、おついでの時にはお寄りになりませんか。』――『ええ、有難う、そのうちに是非。』――そこへ電車が来た。Nはそれに乗った。僕は反対の方へ行くのだった。『では失礼、』そう云って別れた。
「それから三十分許りの後、僕はBの家へ行った。驚いたことにはNが来合していた。僕は変な気がして尋ねてみた、『あなたは先刻、神田の方へ行くと云ったんじゃないんですか。』するとNは腑に落ちない顔付をした。よく聞いてみると、彼はもう二時間の余もBの家で話し込んでいたんだそうだ。
「僕の話を開いて、BもNも笑い出してしまった。そして結局、僕が人違いをしたのだということになった。してみると、僕が前に停留場で言葉を交わした男――それをかりにNNとすれば――そのNNも随分気楽な奴に違いない。
「所が僕には、NとNNとの区別がどうもはっきりしないんだ。二人の顔はどっか違ってるようでもあれば、また同じようでもあるし、何だかぼんやりとこんぐらかってしまった。
「種々の記憶を辿ってみると――僕は日常のことについては非常に記憶の悪い方だが――Nとは五六度逢ったことを思い出した。電車の中で一度、展覧会で一度、往来で二度ばかり、帝劇の廊下で一度、それから……友人の所で初めて紹介された時や、其後友人の家で出逢ったのなどは、勿論計算に入れないとして……まあ其他にもあったようだ。そしてよく考えて見ると、一寸挨拶をしたきりの対面であったが、それが果してNであったかまたはNNであったか、はっきり区別がつかなくなった。で僕はそれを一々Nに問いただしてみた。すると、展覧会でと往来で一度とはNの記憶にもあったが、帝劇の廊下や電車の中のことは、Nには思い出せないらしかった。そして要するに、何だか訳が分らないことになってしまった。
「それから数日後のことだった。僕は銀座通りで偶然Nに出逢った。挨拶をしておいて、僕は真先に尋ねてみた。『あなたはN君ですね。』向うでは笑いながら答えた。『本当のNですよ。名前を聞かなきゃ分らないようでは困りますね。』それで僕は初めて安心したものだ。
「実際君、名前を聞いて初めてその人だと安心するようでは困ることだ。然しNに対しては、僕は妙に怖気がついてしまった。同じような顔付が、頭の中で二つになったり一つになったりした。
「其後、或る薄暗い雨の日だった。僕は込み合った電車の吊革にぶら下って、この電車がひっくり返ったら……などと呑気なことを考えていると、すぐ向うにNが立っていた。はっと気付いて声をかけようとすると、向うから先を越されて会釈をされた。その瞬間だ、僕にはそれがNNに違いないと思われた。どうもNではない。で僕はNNによく話をしてみて、今迄互に何か思違いをしていたことに、きっぱり解決をつけようと考えた。そして歩み寄って行くと、向うからこう云われた。『僕はここで失礼します。僕の下宿はこの向うの○○館ですから、どうかちと……。』そして彼は電車を降りていった。僕は全く茫然としてしまった。いつかちらと聞いたことを思い合せると、其の下宿は君、やはりNの下宿なんだから。」
卓子の上に両肱をのせ、少し前屈みになって、じっと一つ所を見つめてる彼の眼付――妙にぎらぎら光るものと、沈んだ沈鬱なものとが、交る代る浮んでくる彼の眼付を、私はぼんやり見守りながら、話が途切れても一寸は気付かなかった。暫くして私は漸く促した。
「それから、どうした?」
「どうって、それっきりさ
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